ヒプノセラピーを受けてみました、をもう少し詳しく書いてみた。
この記事に書いたように、ヒプノセラピーを受けました。
まあ、この話をすると、大抵は「それって怪しい」と思われがち?なんですけど、こちらとしましては、長年、もう藁にもすがる思いで生きてますからね、なんだってやりますよね。
かといって、飛びついたわけではなく、この本を読んで、そうか、行ってみようと思いました。
印象的なのは「理由はよくわからないけれど、催眠状態で前世に戻るたびに、心の状態がよくなった」ということです。この「よくわからないけど」というのが、逆にいいなと思いました。
私はずっと、西洋医学の最先端の場所で働いていましたが、そこでも、「よくわからないけど」ということは起きました。きっと、掘り下げて掘り下げたらわかるかもしれないけれど、でも、今の状態からは推察しかできない、もしくは解剖してもわからない、というような不思議なこと、人間のカラダってすごい、と思ったことは数えきれないです。
だから、「よくわからないけれど」があってもいいじゃん、と。
それでも何か、自分の生きづらさが改善するなら、と。
その結果、前述の記事に書いたようなことになりまして。
この「不可逆反応」と現したところを、どう表現すればいいか、と思っていたんですけど、今朝、「ああ、これって血管の弁みたいなもんだな」と思いました。血管の弁って、逆流しないようにあるんですよね。(老化すると、弁が緩んで逆流して、いろんな症状が出る。)
ヒプノセラピーを受ける前って、弁のない血管内で、重力に負けて落ちていく血液を、なんとか、マッサージとか、足を高くして寝るとか、そういう対処をして生きてる、という印象でした。
しかし、ヒプノセラピーを受けると、弁が出来たというか。
少し戻ったり、老化したら弁も弱るかもしれない、その可能性はあるにせよ、しっかりと「節」みたいなものができた、という。
いや、違うな。もともと、私にも「弁」「節」はあったんだ、と思い出す感じでしょうか。ああ、私のカラダにも、そんな素晴らしい機能があったのだ、知らなかったよ!みたいな。
ただ、なんにせよ「よくわからない」ものだから、また今後、違うイメージが浮かんでくるかもしれないんですけどね。
この「これまでと違う感覚」をあらわす一例としては、こういう感じでした。
「弁はなきもの」として一生懸命、いろんな方法を模索していた時とは違い「弁があった」となると、世界観は変わります。「あなたに弁はない」ということ、そのものが思い込みであった、とわかったときの驚き。
昔、娘が生まれたときに、生まれたての新生児を抱っこした元義母が娘に、
「小学校は私立ねー。習い事はバレエと…(以下略)」と語りかけました。
ああ、生まれたときは裸で、何も知らない、無垢な赤ちゃん。それは全世界、全員一緒なのに、数分後に誰に抱っこされて、何をいわれるのか、そしてどこの場所に帰って成長していくのか、で思い込みや洗脳が始まるんだ…環境ということはすごい影響なんだろうなと思い返しました。(当時はそんなこと、わからなかったけれど。)
つまり、自分もそうやって語り掛けられ、思い込み、成長してきた、ということ。
そうやって何層にも積み重なっていった「思い込み」「これが正しいと信じていたこと」を取り払っていったときに、一体自分ってどんな人なんだろう。
それを知るひとつの方法がヒプノセラピーじゃないかなと思っています。