スーパーゼネコン、なんで入社して、なんで辞めたんだっけ④
回復編
4つ目の現場は、民間企業発注の大型プロジェクトの現場だった。私はこの現場で転職することになるため、最後の配属先である。
初期メンバーは、所長、監理技術者、私の3人でスタートした。最終的には元請職員が10人くらいの規模になった。
会社が気を回してくれ、プレッシャーの少ない現場へ配属させてくれたのだと思う。前回とは正反対の、人柄の良い監理技術者の下につけてもらうことができた。会社の配慮と、この現場で私と仕事をしてくれた方々には今でも感謝の気持しかない。
そうは言っても仕事は楽ではなかった。大型プロジェクトのため、同時に4社以上のゼネコンが仕事を進める。
私の会社が統括の指名をうけていたため、各社との調整業務はかなりの工数が必要だった。
発注者対応に追われる監理技術者に変わり私が各社との調整旗振り役となった。
「私は仕事ができない。」
潜在意識の奥の奥まで染み付いてしまった自己評価は変わらなかったが、この現場の人たちには迷惑をかけたくない。その思いで必死で働いた。
自分で言うのもおこがましいが、スーパーゼネコンの8年目ともなれば周囲の関係者はそれなりの目で見てくる。それ相応のプレッシャーも感じた。
それでも、できないなりにできることを1つづつ。
そのような考えで仕事に取り組み、周囲の人の信頼を少しづつ獲得していった。と思う。
気がつけば統括管理体制下の他ゼネコンとの調整も、自工事の監理も、後輩の教育も、発注者との協議も、ある程度信頼されながら任せてもらえる立場になっていた。
現場監督の仕事の楽しさややりがいを感じていた。実際には、労働時間は決して短くなかったし、プレッシャーで胃潰瘍になりかけたりもしたが充実した日々だったと思う。
と、長々書いてきたけれど言いたいことはここから。
振り返ってみると、精神を病んだ前の現場でも今回の現場でも仕事に取り組む姿勢は同じだったことに気がつく。
つまり、自分は何も変わっていない。変えられていないと言うべきかもしれない。
自分を変えることができなければ人生はおしまいだと思い、自分自身を変えることを切望し、それでも変えることができずに、周囲の役に立つことができない自分の存在に絶望していたほんの数年後に、
全く同じ仕事をしながら、やりがいや充実感、人から必要とされる喜びをを感じながら仕事に取り組むことができていた。
変わったのは環境である。
n=1の数少ない経験を偉そうに語っているだけの可能性は大いにある。
それでも全ては自分の能力と努力次第では無かったということが骨身に染みて分かった。環境が与える影響の大きさを感じる経験となった。
そうして、周囲の人たち、環境に恵まれて少しづつ自信と仕事への熱意を回復させていくことができたのでした。
次回、転職に至る。