ラーメンを食べるとき、異世界にいる。
無我の境地である。
「ヨガに通いはじめたんです~♪」
「瞑想を始めてみたいです!」
「マインドフルネスがどうのこうの~」
そんな方に僕がオススメするなら、ラーメンだ。
熱々のスープに息を吹きかける。麺を啜る。
吐いて吸って、呼吸法も完璧。
1口目の「旨い!」という感情を最後にラーメンを食べている間の記憶はだいたい、無い。
無我夢中。別次元への移動。
これが無我の境地の正体である。
心を空っぽに、身体を柔らかく。
言うは易し行うは難し。
何度かチャレンジしたが瞑想はとてもハードルが高い。というか、成功してるのかどうかも怪しい。
達人さえも疑うレベルで怪しい。
だからラーメンがある。
ただひとつだけ注意しなくてはならない副作用も存在する。
腹痛だ。
確率でいくと75%くらいでお腹を壊す。
青木まりこ現象が95%を継続中なので本屋ほどの副作用ではないが、威力は3倍弱。
特に細麺の替え玉がいかん。
酷いときは小1時間トイレのガーディアンとなる。
現在。その真っ只中だ。
瞑想後の好転反応。
またはデトックス効果と呼んで誤魔化しているが、単純に身体に合ってないからだろう。笑
身の丈にあった行為を心がけるのもまた修行のうちなのかもしれない。
とはいえ、身の丈にあわない行為が「悪い」とは言いきれないのではなかろうか。
俺は自分に才能がないことを認めて生きている。
絵も音楽もこうして書くことも
運動神経、コミュニケーション、ファッション、勉強
どれをとってもぱっとしない。
じゃあ何故、あれもこれもと手を出すのかと問われれば
「できないことが面白い。」からだ。
仮に何かひとつ飛び抜けた才能や没頭できるものがあったとすれば
他の全てを体験することなく自分の道を進むのだろう。
しかし、何の才能も持たないということは
「なんでもやってみれるチャンス」を持ってるということだ。
もちろんタダでできる訳じゃない。
全てのジャンルで「できない」を味わい尽くす覚悟が必要だし、人に評価されるならまだしも「無関心」をくらっても一人遊びとして楽しむ覚悟も必要だ。
ただ、こういった覚悟を持てたなら僕らは「なんでもできる」。
「できない=楽しい」に変わる。
そりゃあ~
誰かに評価されたいとかもっとみて欲しいとか思うことも多いけど
人の役に立てるレベルまで到達できないことが、逆に自由な活動を可能にしてるのも確かで
身の丈にあわない「なぞなぞの本」を常に持ち歩き
答えがでないという答えと、思考の時間を楽しめたら
こっちのもんだ。
人生を旅に例えた話って聞いたことあると思うけど
死後の世界も旅に例えられたりする
旅支度をしているあなた。
持っていくなら
全部解ける問題集(解き方がわかるも込み)と
問題文こそ読めるもののちんぷんかんぷんな問題集
どちらを持っていきますか?
才能がある人は、全部解ける問題集を持って
訪れた外国や異世界でそれを使って旅費をかせいだりすることも可能だし
全部わかるので、持ってる必要がないからいっそ置いていけば荷物は軽くなる。
才能がない人は、さっぱりわからないから荷物を減らすために置いていく人も多いだろう。
でも、わからないことをわかってくれる出会いを探したり、旅の中に答えを探したり、長距離移動の余興として楽しむこともできる。
旅の楽しさなんて、人それぞれ。
地図を持って目的地を持って、自分の決めたルートを行く旅もあれば
手ぶらで目的地もなく、彷徨うように行くルートだってあるのだ。
ここからはあくまでも個人的な気持ちだけど
旅の恥はかき捨てというように、自分に才能がないことを認めれば後者の旅ってのはきっと面白いことが沢山待ってる。
俺はそんなのが好きだ。
思いつきで行き当たりばったりな旅が好きだ。
書き出しでラーメンの素晴らしさを語り
最後の晩餐すらもラーメン推しかのように称賛したつもりだったが、どうやら違ったみたいだ。
今日、今この瞬間に最後の晩餐には何を?と聞かれたらこんな風に答えてみたいと思った。
「道草を食いたい。」
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