藤野知明「どうすればよかったか」
公開日: 2024年12月7日
それぞれの家族は特別な宇宙であり、他の家族と決して同じではないし、内面を他人に見せることもない。その環境や規則は外部の人間には理解しきれない。でも、その理解しきれなさには、全部の家族の共通点がある。家族の存在は、譲歩と妥協の上に成り立っている。長い時間を一緒に過ごすことで、奇妙な総合体ができあがるが、それが必ずしも問題ない共存を意味するわけではない。家族は爆発するまでの一瞬の存在であり、その一体感を維持する規制の中で成り立っている。
この映画は、語り手が子供の頃から住んでいた家、家族という唯一の空間を映し出すことで、一つの家族の内側というか、その敏感でありながらも、結構固体な有機体のようなものを映っている。たまに家族メンバーが外に出たり、散歩する場面があるものの、特に母親は足が悪くなってから、姉も出かけなくなり、次第にその家の内側だけが映されるようになっていくわけ。
時間が経つにつれ、母父は歳を取り、外界との関わりもほとんどなくなる。それをわざと投影するように、家族のメンバーが幽閉された家の空気も次第に息苦しくなっていき、特にそれは、家具が異常に多く、個々の部屋にどんどん積み重なっていく様子が具象化される。
この家に引きこもった家族のメンバーたちは、敏感で幻のような調和を保つために、喧嘩や暴力でさえも受け入れるようになってしまう。それに対して、弟である語り手だけは、母親や父親と交渉したり、お姉さんに入院が必要だと納得させたりするため頑張ってる
残酷な真実のことに、実際彼はずっと前からこの家族の一体の一部ではないし、誰にも本当の意味で聞いてもらえないのだ。その映画自体は彼の声を体現化するためのものだ
語り手は、自分を置き去りにした家族に声を届けようとするが、その努力はほぼ報われない。この物語は、統合失調症の姉やその対応の失敗を描くよりは、家族内で最も下に位置されてしまい、判断権を欠いた弟の後悔、罪悪感、自分の無力性への怒りを叫ぶ声を体現している。
監督が20年かけてこの映画を作り上げたことから、彼の孤独や疎外感がひしひしと伝わる。もちろん、テーマの重要性や制作の偉大さは疑いようがない。しかし、外部からその家族を見ているのは観客だけではなく、語り手である弟自身でもあるという真実がどれほど辛いものか。
終わりは特にない。少しありきたりかもしれないけど、トルストイの言葉が頭にしか浮かばないので、これを引用したい
「すべての幸せな家族は似ているが、不幸な家族はそれぞれが自分のやり方で不幸である。」(『アンナ・カレーニナ』より)