備忘録:2024年11月秋、猫と憂鬱編 / こんなnoteにまじになっちゃってどうするの?
箇条書きに:
⑴過労や老いとは異なった重度の鬱に襲われた。
これは天気によるものだ(経験則)。
⑵愛猫がずっと僕のそばで寝ている。
散歩で立ち寄るペットショップの猫の気配を感じるのか?
⑶机に置いたはずの衆議院選挙の投票券を無くした。
探す(投票する)気が失せた。この齢で国の政治に絶望の証拠か。
⑷⑶に付随すれば、まだ国に希望(や怒り)が残っていれば、
自分なりの国家像を小説作品に落とし込むはずだが……。
⑸ボクシングダイエットユーチューブの断念について。
二つのユーチューブを見て自分にはできないと確信。
下記の二つは二年分の動画を先取りする。それを計画的に順次、計画通りに配信するというもの。
①ニックの社会実験「二歩先を行く」
➡︎イケメンのニックが食事系YouTubeで巨漢になって、ある日、突然元の体型に戻った!と言う社会実験。
②桜井政博の「ゲーム作るには」
➡︎ゲーム業界のレジェンドの桜井政博さんが二年間に渡って「ゲームを作るコツ」を配信。結果、それはすべて先撮りしたものだった。
YouTubeは一旦初めてしまえば《どこで終わらせるか?》を決めねばいけない。僕はYouTuberではないので「終わり」は必須条件だ。
これは人生を通して長編小説を書いていく巡回プロセスに似ている気がした。僕は「マイナス25キロ減量」と裏設定の「25年前のあの彼女に会いにいく」だったが、編集が膨大な仕事量だと気づく。始める前から無理ゲーだった。それと、ふと思ったのが《なぜ僕はYouTubeは簡単に諦められるのに小説は諦めないのか?》という問いが自分の内部に浮き上がった。人生の消去法などの色々な理由はある。これが僕の天職とは思えないけれど最終的には遅かれ早かれ、これを選ぶしかなかったんだな。画家を目指して成れなくて映画監督になりました。みたいな人のように。
⑹ダイエットはなかやまきんに君のザ・きんにくTVで。
ボクシングジムにも通ってはいるが、毎日のダイエットのベースはなかやまきんに君と一緒に室内トレーニングである。一週間ほどやっていて、あることに気づく。自分で毎日ザ・きんにくTVでダイエットをやりながら「当時のコロナ禍(ダイエットムーブの流行り)の状況と「配信者がやりたいこと」と「視聴者が求めるもの」が変遷を肌で感じた。
最初の頃の彼の動画には「どうですか? 見てください! 僕のこの身体! すごいでしょ! みなさんもこんな身体になります! 」そんなセリフシーンは飛ばすわけで。毎日、僕は自分が効率よく「トレーニングするために僕が必要だと思う《トレーニング映像部分のみ》を黙々と再生する。結果、毎日僕は自分が純粋に必要な映像シーンだけを繰り返して、行うことになる。これは僕の読書スタイルと同じである。ちなみに彼の良いと思う回と再生数も良い回は「どうですか? 続けられて、肩こりが取れた、よく眠れる、そして食事が美味しくなったといわれる方々の声が本当に多くなりました! 」これはさすがに僕の心にも刺さった。彼は動画をやる中で読者の共感を得ながら再生数を伸ばしていったのだ。私は小説を書きました。この箇所はこう読んでくださいね。というのはおかしな話(もちろん表現者としてはあって良い話)だ。読者は読者の都合で読む。読者は全部は読まない。自分が感動した部分だけを何度も読み返す。そこだけを他者に伝える。
⑺落語の伏線回収と猫の気配について。
新作落語(原稿用紙三十二枚)を一つ書いた。一日(15時間)かけて一気に書いた。こんな波があるような仕事にやり方は良くない(中途半端に書き続けて完成品が一向に出来上がらないよりは百倍マシだが)。
トレースした「古典落語」を何度も聞いた。古典落語の型の鮮やかさ。伏線と回収は完璧。これには唸った。どの分野にも「古典」はあるが、まさに温故知新だ。流れるような伏線とその素早い回収(エンタメ小説の鉄則。読者はすぐに忘れる! 事件と事件の間は離さない!)をあらためて身をもって実感した。
最近、愛猫が僕にあまあまだ。ペットショップで他の猫を見てくる気配を察知しているのか。
他に書くべき備忘録はあったが、今日はこれにて。
後記:
一昨日の晩はひどい鬱で八時間ほどショート系動画をずっと見ていた。バズっていたのも、好みでないのは飛ばしながら。海外系から日本系テレビドラマ風に家族や新婚夫婦や友達同士でドラマ仕立て、犬猫、動物、赤ん坊、身障者、子ども系の感動系、色々あった。ほとんどがヤラセ(例えば、身障者の感動動画がバズってそれでボロ儲けしてたら、見せもの小屋と何が違うのだろうと思うが)だった。やはり、唸るような映像は、とうてい素人には真似はできない技術(例えば、タップダンスやヨーデルなどの歌、バイオリン演奏、など)がある。このnoteの世界と同じだと思った。本当のプロは自分の本業に忙しくてnoteなどやってられない。ホリエモンなどの有名人はサブスクの小遣い稼ぎで寄稿してるが、バリバリ現役の画家や音楽家やダンサーはnoteはやらないと思った。それと、映画や絵画や金メダル(別に金メダルでなくても良いのですが…… )一つにとっても、それを発表(成し遂げる)するまでの修行期間、制作時間、つまり準備期間は年単位(十数年単位)なのだと言うのを、ショート系動画を見終わって、肌で実感した。
昨日思ったこと。
noteは目的(例えば文章の上達で、毎日作文するためとか)があって、毎日の修練でアップするのは有効だと思うが。毎日やることではない。気がした。昔のファミコンの伝説の無理ゲーの「たけしの挑戦状」のクリア後のビートたけしの隠しメッセージを思い出した。
こんなげーむにまじになっちゃってどうするの
こんなnoteにまじになっちゃってどうするの?
(真剣に毎日投稿している人々を揶揄しているわけではありません。そんなに頑張るな、と言う意味です。こう言う補足をつけないといけない時代なんだなー。笑)