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表現とは、職人とは、

また、煩悩が入って、本稿が進まず。

煩悩の吐きだしとそのレジュメをここに。

注意)今回も個人的な備忘録ですので、だれにも役に立つ記事ではありません。


体調管理と本稿(アウトプット)と読書(インプット)を調節しながらやりくりする(それも十分な休憩を挟みながら)だけで、1日が足りなくなる。歳だ。笑。^ ^

生きてきたいままでのツケが、いまの自力で挽回できないようなところまで回ってきた気がする。現時点の人生に焦るどころか、途方に暮れる。


以前、プロの作家に破門を受けた。ことになっていた。だがいま。ぼくは春以降に東京にでてその先生の鞄持ちをやる方向にまた人生が動いている。もちろん先生に「詫び」をいれた当時のぼくは「破門は絶対に撤回されない」ものと腹を括っていた。

が、紆余曲折あったようだ。ぼくはあれからキツく本稿が書けずに、くだらんコラムばかり書いて日々のやるせなさをやり過ごしていた。絶望を紛らわせていた。先生は近親者(父)の逝去にて孤独になったのかもしれない。あるいはちょっと普通のひとには分かり得ない器の持ち主なのかもしれない。先生の弟子らは、脱落さえしなければ、大成したり結果を出している人(局長クラス、大手出版の版権管理、直木賞作家、学研の編集)が多い。だから脱落したぼくにとってはじぶんの未来を思うと暗澹たるもの、つまり逆にいえば脱落さえしなけれプロの作家になれるという事実の崩壊があった。でもま、小説は誰かに書いてもらうものではないので、誰に頼ることなく地道に孤独に書きつづけるしかない。それは変わらないのだが。

さて、以前、頓挫していたらしい「師匠のYouTubeチャンネル」が放置されていて、その制作が、最後の弟子のぼくに仕事として回ってきた。

いくつか観させてもらって、問題の洗い出しなどがあって。

そこで、

本題である。

これ「先生のYouTubeチャンネル」は前任者からは引き継ぎだ。

前任者の意図(魂)を汲んで、徹底して自分を殺して編集をやるのか?

自分のアイデアをだして自分がいいと思うものを制作していけばいいのか?

弟子としたら前者が正解だろう。編集の職人に徹するわけである。

だが、それどうなん? 視聴者に受けるの? という疑問が湧き始めるに違いない。

さらに、再生回数が悪かった場合だ。

「そもそも、このコンテンツはおれが企画立案したもんじゃない!」などと責任転嫁をしそうな気がするのである。

全権を委任されたとて、再生回数が悪ければ、100人が100人編集ディレクターのぼくに低調の原因の矛先がくるに違いない。

さらには「そもそも、おれは、YouTubeの編集をするために上京したんじゃないんだ!」

などと自問自答しそうなのである。が結局、

弟子とは滅私奉公の丁稚なのである。

そもそも、じぶんは徒弟制度に向いているのか?

では、この話の見方、論点の内容の角度をすこし変えてみる。

YouTube制作がイラストレーターやコピーライターやある編集部の雑用の仕事だったらどうか。想像がつかない。

YouTubeはまったくの、その再生回数で残酷なほど、結果が見えてしまう。もちろん出版された本やKindleもおなじだろうけれど。

でもまあ、釈然としないのである。

最初から、じぶんから企画立案を立てたコンテンツならケツをもてるわけだが、引き継ぎですべて自分がやる。となると。である。

「再生回数」などという「結果」を見ずに、CM監督や映像作家のようにひたすら自分が納得するまで動画編集をやりこむ。ところまで割り切ったらばまた企画への携わりかたも違ってくるのかもしれない。

ここで思うのである。

YouTuberは、テレビディレクターは、CMの映像監督は、映画監督は、表現者なのか? 職人なのか?

クライアントがいれば職人だろう。

表現する。というが、他者(ひとりでも)が理解できぬものは表現といえるのか?(極論だけど)

多数を獲得すれば表現になるのか?

そんな大そうなことをやろってわけじゃないんだけど、YouTubeだから8分から12分程度の動画ですが。^ ^

でもま、小説でも動画でもなんでも、自分が楽しめないとダメですよね。じぶんが楽しめないのは、苦痛や義務感やさせられてる感、それらが作品ににじみでるから。


なぜ、ぼくは、小説は、書きつづけられるのだろう?


これもまた、変な記事だな。

ね、最初に書いたとおりでしょ、だれの役にも立たない記事ですって  ^ ^)

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蒼井瀬名(Aoi sena)
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