ぼくプロVol.4(余談、ムラカミブンガクの功績と罪過)
noteでもおなじみの美樹香月先生にストアカで授業を受けている。
記事を読者にわかりやすくまとめる。それも練習である。
❶ぼくがzoomで美樹先生から文章、作劇の練習をうけている最中に美樹先生はというと、じぶんのnoteの記事を書いている。
(主語を変えるか)
❷美樹先生はぼくの文章指南をしながら、じぶんのnoteの記事を2つしあげた。
そのなかでぼくは文芸誌の新人賞の裏側を知った。
若い頃、某出版社で執筆をあげて、一服でもしようと廊下を歩いていると作業場(少し広めの、応接間とはいえない、机があって色々な作業をする便利なスペース)に、その出版社が主催する文藝新人賞の原稿が段ボールに山積みになっていたそうである。見知った旧知の編集Kがひとり下読みをしていた。
「ひとつ、見てもいいですか」
美樹先生は一次原稿とは一体どういうものか興味が湧いて訊いた。
「時間の無駄ですよ」
いったきり、編集Kは、下読みを黙々とつづける。段ボールには紐で括られた応募小説の冊子が乱雑に積まれてあった。
何十冊かパラパラめくると美樹先生は編集Kの、いわんとしていることがわかった。
応募原稿のほとんど95%は、まったく同じ原稿だった。
「え? どういうことですか? 」
ぼくはzoomでしゃべる美樹先生に訊いた。
量を読むと、下読みでふるい落とされる原稿がはっきりと、2種類に分かれる。面白いことに。
⑴誰かのマネ(既視感もそれに含まれる)。
⑵じぶんの夢、妄想。
そのどっちか。きれいに分かれる。
「じぶんの作品こそが唯一無二だ」そんな作品が某文藝新人賞の編文芸部集室に膨大にとどく。
意識してかいているにせよ無自覚にかかれたものだろうが、「マネ」は弾かれる。
あとは、「じぶんの夢は最高に面白い!」「こんな夢があるんです!」「だれも見たことないでしょ!どうですか?」てパターン。「このアイデアはオレだけのオリジナルだ!」って書いてある。そういうのは段ボールに無造作に積まれていく。
が、そのなかに、やっぱりある。
ある程度のテクニカルな部分の水準でかけていて、さらに「のびしろ」がある。
のびしろがある原稿は、別の、他の編集が手に取れるような棚の高いところに置いておく。
⑵の話は、公募ガイドの添削の先生もまったくおなじことをいっていた。東京藝術大学の創作科の一年生は、自分では奇抜だとおもって夢のような小説を提出する。だが、そんな原稿は准教授ともなればすでに嫌なほど読まされている。そのなかに、ただのふつうの日常を、優れた筆致で提出する生徒がいる。
美樹先生と東京藝大の創作科の准教授の意見は一致している。
ふつうのことをかく。
今日、こんなことがありました。
ふつうの文章で読者を共感させる。それが一番むずかしい。
もうひとつ。こぼれ話。プロから見る村上春樹の読者層。
「読者のストレス」=「語彙や文章の難しさ」、「構造の難解さ」=「読んでわからない」
☟
そういう読者の「壁」がある。その「壁」に、
☟
「村上春樹という作家なら、わからないおれが悪い」という枷(読者の固定観念)。
☟
実際に読者は村上春樹を読む。
☟
「わかったぞ!おれは村上春樹をわかったぞ!(カタルシス、仕掛け)」
冷静に考えれば、どの作家だっておなじなのに、なぜか、村上春樹だけこの仕掛けにハマっている。(社会風潮)
ぼくなりに、「美樹先生がよんだ文藝新人賞の一次落選原稿」と、「プロから見た村上春樹の人気の仕掛け」を訊いて感じたことがある。
村上春樹の文芸界に落とした功績と罪過だ。
元旦の記事にKくんのことをかいた。
ぼくは彼じぶんの口から村上春樹ファンだとは訊いていない。
ファンでないとすれば、かれは、「無意識に」、村上春樹をマネている。冒頭はノルウェイの森、終始、主人公は列車のなかで、回想に耽っている。
ムラカミブンガクが日本の若者に落とした功績なのか、あるいは罪過なのかぼくは知らない。