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memento mori

ふじこさんのようにリンクをここに自由に貼っていいものやら、当人に事前にリンクの了承を得ること、それがnoteのが約束ごとなのか知らない。

あとでリンクは外すかもしれない。

ぼくは下記の記事を読んで思うことがあった。

彼女とぼくは環境はまったくちがう。

ぼくは生まれてこのかた、他人にじぶんの文章を褒められたことが、ない。

いままでのぼくの師匠はすべて小説だ。

小説を書いた作家の文字だけだった。

今日のタイトルは「memento mori」(死を思え)。

どんな作家も、そういうことをテーマにしている。

死を思う。

今日の延長線上に当然のように明日があると思うな。

たまたま9日前に師匠に拾われた。生まれて初めて

「少し上手くなったんじゃない?」

「いや…   」

「じぶんで認めていいんだよ、プロのおれが言ってるんだから、素直に、はいわかりました、って言えばいいの」

一生忘れないと思う。

そんな師匠だって、明日死ぬ。可能性もある。さらには、

じぶんだって、明日死んでいる。

かもしれない。

こんな話をしようと、noteを開いたんだっけか?

今日は、散歩をしながら初めて携帯のボイスメモを使った。なるほど、メモがわりにいい。

外観描写の大切さ。だった。サクッと。

「筆者が思っていることなんか読者は読みたくない」

これを初めて言われたのは、公募ガイドの添削の杉原志啓先生だった。

それとまったくおなじことを美樹香月先生もいった。

杉原志啓先生から習ったことはふたつ。

⑴小手先でかいても伝わらない。

⑵きみの文章にはどうも既視感がある。

杉原志啓先生が唯一、褒めた作品が、noteの「親父の背中」

これは名前を年代を変えれば、99%事実を描いた小説だ。私小説といっていいかもしれない。

「こういうちゃんとした文章も書けるんじゃないですか。」

杉原先生はいってくださった。

つまり完璧な小説とまではいかないにしろ「虚構の強度」は「物語の密度(純度)」は高かったわけである。(杉原先生曰く)

だが、現代(このいまの最新のSNSフォーマット)ではまったくの不人気。

そこはぼくが時代にあっていない。そこを掴め。美樹先生はいう。

さて、本題である。

先の記事の問題点の「嘘くさい事実からとった聡(虚構の)の独白」。

さらに虚構の強度を高めるには、

その部分を削除する。か、取材で事実のように固める。しかない。

ぼくは杉原先生のときは小説を勘違いしていて(まだ美樹先生に言われているのだが)、筆者と登場人物が乖離できないでいる。

筒井康隆のブラックユーモアなどの小説群は「超有名人である筒井康隆の私生活を知りたい読者」「読者の野次馬根性」を前提に書いてある。

それとじぶんを混同していたわけだ。

さらにそれを文学に落しこむなら「私小説」になるだろう。

「蟹工船」(蟹工船のどこかに、小林多喜二がいたのだろうか?)

「苦役列車」(貫太はどの、だれの像なのだろうか?)

「火花」(どれが又吉直樹なのだろうか? 彼の先輩にいるのだろうか?)

レヴェルまで、少なくとも。筆者と登場人物を乖離させる。

筆者(じぶん)と登場人物の乖離。

むむむ。

最後に、今日の写真の中村文則さんのことばをかいておく。

女性の読者がいればだが、川上未映子さんのことばも。

現代の文学シーンでデビューするにはどうすればいいかとか、そんなこと考える必要はありません。ただあなたの文学を、全力で小説に込めればいいです。シーンなどあなたが変えてしまえばいい。お待ちしております。
中村文則
小説にとっての動機は複数あるけど、あとから学ぶしかないことも多い。処女作は自分にとって世界にとって、こればっかりは決着がつかないのだ、足掻くよりほかないのだと思うことだけを絶体絶命で書いてください。
川上未映子



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