せめて遠くで祈らせて。

アンナチュラルを、今更観終えた。

2年前に放送されていたドラマで、確か当時もドラマ好きの方もそうでもない方の間でも大人気となっていた作品だったのを今でもよく覚えている。私の悪癖のひとつで、「好きそうなものメモにメモしたことは忘れてしまう」というものがあるのだけれど、例に漏れずしっかりとメモしていた。「アンナチュラル、観ること」と。我ながら読み返しても興味が1ミリたりとも出ない文章である。当時私生活でも慌ただしいことがあり時間を搾取されていて、なあなあになる閲覧時間に萎えて脱落してしまっていた。何故今更観ようかと思ったかというと、話題のMIU観たさに調べているうちに、同じ脚本家さんが手掛けていたからだった。世界線が少しでもリンクしているなら観るしかない。観る理由が増え続けて、重たい腰をようやくあげた。

結論から言うと、泣きすぎて頭が痛いし観終えた今も引きずっている。良作すぎるほどの良作。
一般的な一時間ドラマと同じ時間、CMもろもろ差っ引いておそらく45分程度の放送時間。一話完結型で、伏線として物語の大筋を少しずつ追っていく形、ありふれた作り。それなのにたったこれだけの時間で様々な人間の人生観が色濃く描かれていて、どの話でも大泣きしてしまっていた。脇役が脇役と感じられない。観終わった後に出るため息は、何色にもなっていて自分の肺から出たものとは思えないほどだった。

中堂さん(作中で恋人を他殺されその遺体を自分で解剖した法医解剖医)が少しずつ周りと心を通わせて、振り切ってしまった心に温度が点っていく様が愛おしかった。それと同時に、どこにもやり場のない思いを抱えて、5話で同じく恋人を殺された子に自分の心を重ね、解剖医というより人としての域を逸脱しようとしてし損ねた表情も垣間見れた気がする。恋人を殺された子が犯人を刺したときに、中堂さんの暴挙を止めに来てくれたミコトにむかって「(恋人を殺された男の子が犯人を刺したことを示唆して)思いを遂げられて幸せだったろ」と雪降るシーンで虚な目をして答えるあの姿は、言いようのない物悲しさを含んでいた。きっと私の人生に降りかかることがないように思う。これは俳優さんの演技が素晴らしいものに起因するのだけれど、ただただ流れ込んでくる濁流のような悲しみに囚われて、嗚咽を漏らすくらい泣いた。

どこかで「人の感情で一番強いのは憎しみだ」と聞いたことがあるが、あながち嘘ではないのかもしれない。それでも人は生きていくしかないし、誰かの人生を生きることもできないのだ。それは誰にも奪えやしない事実だとは思うけども、世知辛いよな。倫理と規律に縛られて、心の解放はあとは自分次第だなんて。

でも信じたくもなる。一度人を愛せた人はどこまでいっても優しい人間であることを私は知っている。それと同じでミコトも中堂さんを信じていたんだな、と思った。


そんな理由で?と殺してしまう犯人たちを観ながら、大なり小なり仄暗さを抱える人間という生き物である私自身も人ごとではないと思えた。犯人側の気持ちなんてわかりたくもないしわかろうとも思えない。だからこそ思う。私が中堂さんだったら。恋人ないし愛しいひとを殺された立場だったらどう思うのだろう。向こう側で幸せに笑っていて、なんて、考えられるようになるまで何年も要してしまうと思う。むしろ考えられもせずぼんやりと生きながらえた自分のこれからの途方もない時間に、たまに絶望するのかもしれない。

いつまでも正解の出ないことを考えている。

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