悪の教典
私が生まれて初めて見た年齢制限付きの映画は『悪の教典』だった。
悪の教典はR-15。
性的なシーンもあるが、何より殺人・暴力など残虐なシーンが多い。
ストーリーとしては、サイコパスで共感性のない教師が自分にとって都合よい学校(世界)を作ろうとして、都合の悪い因子は容赦なく次々に消していく。だが、次第に収拾がつかなくなっていき、衝動的に生徒を殺してしまったことを皮切りに学内の人間を全員殺すストーリーを計画する、、、という物語。
高1、15歳だった当時の私は、R-15の映画が見れるようになったことで大人に近づいたように感じてウキウキしていた。何でもいいから年齢制限付きの映画を見て、大人になったことを実感したかった。友達を誘い3人で悪の教典を見に行った。
中盤、主人公が生徒を拘束し、殺害するシーンを見たとき、私は猛烈に帰りたくなった。怖すぎてこの映画をこれ以上見ていられないと本気で思った。でも、友達に途中で逃げたと思われるのが恥ずかしくて我慢して座り続けた。最後に主人公が大量に生徒を射殺していくシーンでは、最早あまり何も感じなくなっていた。
何とかエンドロールまで見終えた私は、完全に放心していた。大人に近づくどころか、まだまだ自分が子供であることを痛感しただけだった。
友達とコナンの映画などを見たときは感想も盛り上がるが、友達も呆然としていて映画の感想なんて話せる雰囲気ではなかった。
作品の舞台が高校だったこともあり、高校生の私は恐怖で寝れない日々が続いた。
食欲もしばらく減り、「見なければよかった」と思ってしまった。
しかし、私はあきらめなかった。
「この作品を乗り越えられたとき、私は大人になれる気がする。」と思った。
そこで、翌週図書館に行き、原作小説の上下巻を借りた。
今となっては一巻で完結する作品ではなく、上下巻ある作品、しかも自分にトラウマを植え付けた作品をよく読み切ったなと思う。
地獄に自ら身を投げた私は、原作のほうが映画よりも残酷なシーン多いやん、と絶望していた。
上下巻ある作品を二時間の映画に詰め込んでいるので、原作にあった回想や修学旅行のシーンはカットされている。矢継ぎ早に主人公は無慈悲な行動を起こし、それを読んだ私は気味が悪くなる。
でも、映画を見たときのような気持ち悪さは少なかった。映画では、主人公の行動の背景や心情がわかりにくかったり、全体的に暗いので「今、何が起きたのかよく見えなかった」ということもあったりと、ストーリーに追いつくのが難しかった。結果、残虐なシーンが理由なく目の前に現れる状況になっていた。そして「なんでその人殺す必要あったの?」とか、「なんでアメリカ追い出された??」とか、「なんで全員殺し始めたの???」という疑問を抱いたまま映画が終わった。おそらく映画の演出として主人公の独白をなくすことで主人公は「常人には理解できない」考えの下に行動を起こす人間であると強調していたのだと思う。
しかし、小説を読むと、主人公なりの論理があって行動を起こしているのがわかる。主人公の気持ちに共感はできなくとも、理解できるだけで物語の見え方は変わる。
小説では主人公の蓮実教諭だけではなく、高校生の性格や関係性も色濃く描かれている。また、主人公の人間らしい一面をほんの少しだけ覗き見れるシーンもあり、頭脳明晰、眉目秀麗な主人公に少しずつ惹かれてしまう自分がいた。
そうして私は、『悪の教典』の虜になった。
その後、悪の教典序章というスピンオフドラマのDVDもレンタルで見たり、
コミックスも読んだりした。
そして先日、Amazon Primeでもう一度映画をみた。
約10年の時を経てもう一度。
どういう展開が起きるかわかっているというのもあるが、小説で主人公のバックボーンや行動の理由がわかっているので得も言われぬ恐怖に襲われるということはなくなった。
それだけではなく、ゲイの久米教諭のスマートフォンが映るシーンを見てみると男性のアドレスしか電話帳に入っていない。そもそも、まだガラケーがほとんどだった時代にスマートフォンを使っている久米教諭の実家の太さがなんとなくわかる。など、1つのシーンをとってもかなり細部まで作りこまれていることが分かった。
窓が開いていることから窓の外に逃げた生徒に気づき撃ち殺すシーンでは、殺した後に宇宙飛行士の人形が倒れてしまい、それを何食わぬ顔で直すという描写がある。
人を殺すときと宇宙飛行士の人形を直すときの表情が同じで、主人公にとって人殺しは人形を扱うことが同等であることを印象付けるシーンとなっている。
小説を読んでから映画を見るだけで、こんなにも理解が進むのか。。。と思ったし、映画がどれだけ作りこまれているかがわかった。
最後に、十年前の私へ。
『悪の教典』に対して恐怖だけでなくエンタメ性を見出すことができた私は、自分の定義に従えば、大人になれたと思う。