小説 平穏の陰 第四部(1)
どのくらい眠っていたのだろう。
身体が鉛のように重く、動かせない。力の入れ方を忘れてしまったような感覚だ。
目は開く。真っ白な景色で眩しい。
あぁ、そうだ、この景色を僕は知っている。昔、左眼を撃たれて気がついた時も、こんな真っ白な空間で目が覚めたのだった。
徐々に目の前の霧は晴れていき、やはり白い天井と白いカーテンが視界に入った。
病院だな……そう思うと溜息が出た。
病院で目が覚めるという事は、幸と不幸が同時に起きたという事だ。
幸は勿論、命が助かったという事。今は安全な所に居て、自分自身を取り戻せたという事。
不幸は、それを脅かす深刻な被害を受けたという事だ。
僕の最後の記憶は……確か父さんが僕を車で運んでいた。真夜中に。
今、此処に父さんは居ない。僕ひとりだ。
父さんは、一体何をしていたんだ……いや、本当は薄々感づいている。
それはとても悲しく残酷な事で、僕の中の良い子がそれを否定し、考えを改めるように訴えるけれど、恐らく無駄だろう。
どちらが正しいかはもう間もなく判明する。
何故なら僕の目が覚めてしまったから。これから幾らでも調べることができる。
二度と目が覚めなければ、幸せなままでいられたかもしれないのに……なぁ?
そんな事を考えていると、人が入って来た。白衣を羽織った男性がひとり。中には緑色のVネックシャツを着ている。
短く切り揃えられたブロンドの髪に蒼い瞳。清潔感のあるその人は、一目で医者だとわかった。
「よかったぁ、気がついたみたいだね」
歳は、父さんよりは僕の方に近そうだ。少し歳の離れたお兄さんのような。
その人は心から安堵の溜息をもらし、両手で僕の頭を包むように撫でる。それは幼い子供を可愛がる母親のように。
馴れ馴れしすぎて僕は驚いたが、こっちは身動きがとれなかったから、その人にされるがままになっていた。だけど何故だろう、この強引な優しさが、荒んでいた僕の心を少し癒やしてくれた気もする。
どうせ今は動けないのだから、このまま甘えてしまってもいいだろうか……そういえば僕の母さんも父さんも、こんな風に僕を撫でてくれたことはなかったな、などと思い出す。
「ゆっくりでいいからね。ゆっくりでいいから、これから回復に向けて頑張っていこう」
その人はそう言い、慈しみの目で僕を見た。
その人は外科医だった。
此処は或る村のはずれ。この建物は、その人の自宅兼診療所となっている。僕が少し回復し、喋れるようになった頃にそういう話を聞いた。
「君は本当に強運と強い生命力の持ち主だね」
先生は僕の傍の椅子に座り、そう言う。
或る休みの日の朝、先生は趣味の魚釣りに小川へ出掛けたところ、川岸に僕が血塗れで倒れているのを見つけたのだという。先生は急いで僕を自宅へ運び、緊急手術をしてくれたそうだ。感謝してもしきれない。
「最初に見つけたのが僕でよかったよ。他の村人に見つかっていたら、君は今頃どうなっていたことか」
どういう意味だろう。そう思って先生の真意を伺う。すると先生は、僕の両肩を掴み、目を覗き込んで、子供に言い聞かせるように言った。
「この村には、君のような灰色の髪をした者を差別する風習がある。だから君は、自衛できるほど元気になるまではこの建物から出てはいけないよ」
差別。肌の色による差別があるように、此処では髪の色による差別があるのか。そう思うと、僕は酷く重苦しい気持ちになった。
先生の話によると、数十年前——先生もこの村に来る前の話だけれど、生まれつき灰色の髪を持つ男の子がこの村に捨てられたそうだ。いや、もしかすると、本当はこの村で生まれたのだが、両親が自身への差別を恐れて捨てたのかもしれない。
この村には、灰髪の子供は禁忌の子という言い伝えがあるらしく、存在自体が嫌らしく忌まわしいものであるとされていた。
その赤ん坊は、当時の村長によって両の目を潰され、教育を受けることなく子供の頃から重労働に就かせられ、16歳になると殺されたのだという。殺された理由は、思いのほか体格よく成長してしまい、万が一にでも暴力で報復されることを恐れたのだとか。
僕も今年16歳になる。
僕は自然と、見たこともないそいつに思いを馳せていた。
両目が見えないっていうのに、何もできるわけないよなぁ?なのに終いには殺すなんて、なんて身勝手な大人たちなんだ。
自分の右眼を手で塞いでみる。そこには真っ暗な闇しかない。こんな暗闇で、音を頼りに手探りで生きていたっていうのか。世界を知らずに、自分の境遇を客観視することもできないままに……一体お前は、何の為に生まれてきたんだろうな。そう思うと、胸が潰れる思いだった。
お前の仇を、俺がとってやろうか――そんな考えが一瞬よぎったが、かぶりを振って打ち消す。いくら何でも、そこまで大それた事はできない。今の僕には人ひとり殺すだけでも精一杯だ。
彼の無念は胸の内に留め、僕は、自分がこれからどうするかを考えなければならない。
お風呂にはまだ当面入ることができないらしく、わざわざ先生が身体を拭いてくれるらしいのだが、その時に僕は初めて、自分についた身体の傷を見ることとなった。
右の太腿から骨盤を通り、腹を横切って左の脇腹、脇の下を通って鎖骨の辺りまで、縫合した痕が続いている。まるで一匹の蛇が身体の上に乗っかっているように。
先生は予め、酷い傷痕が残っているから覚悟はしておくように、と教えてくれてはいたものの、実際に見るとかなりのショックを受けた。
よくこれで命が助かったなと思うと同時に、これを父さんがやったのかと思うと気が狂いそうになる。
どうして父さんは僕を殺そうとしたんだ。
そう思うと、父さんと過ごした時間や交わした言葉、その時々の感情が蘇り、嗚咽してしまった。抑えたくても止まらない。
僕の異常に気づいた先生は、何も言わずに僕を抱きとめて背中をさすり、そっと寝かせてくれた。この時ばかりは僕は、自分の事を何ひとつできなかった。本当に子供だと思った。
僕は、心も身体も深く傷ついていた。
傷つきすぎて、どちらも思うように動かない。
生きたいのか死にたいのかもよくわからない。
真夜中に目が覚め、天井を見つめ、瞬きも忘れて僕はじっと考えていた。
いっそ、何も感じなくなってしまえば幸せだろうか。
でもどこかで、それでいいのかと叱咤する自分も居る。
いつから僕の中には、今の思考と違う事を言う奴が棲みついたのだろうな。
このまま悲しみに溺れて死ぬ方が楽な気もするが、それを許さない自分が居る。
そして唐突に思い出した。『今は気が済むまで存分に悲しめばいい。悲しんだ後は、今から自分ができること、やりたいことを考えるんだ』という父さんの言葉を。
父さんが傷つけたくせに、その言葉に元気づけられる自分が何とも滑稽で、吐き気がした。そしてそれは次第に、父さんを憎む感情に変わっていった。
思い返せばあの日、父さんにしては珍しいと思った事が2つもあった。
1つは、仕事の話をしてくれた事。父さんが自分の研究を話してくれた事は、今まで一度も無かったのだ。だけどあの時ばかりは父さんも、話さない方が不自然だと判断したのだろう。実際、話してくれなかったとしたら、僕は更に疑惑を深めていた筈だ。
それが僕にとっては既に想定外の出来事で、もう1つの違和感に対する感度が鈍ってしまっていた。
そのもう1つというのが、僕に学校の事を聞いてきた事だ。今思えば、父さんはこの時点で既に人形の彼女を調べ尽くしていたわけだから、僕との会話も把握していたのかもしれない。だけど素知らぬ顔をして人形という言葉を出し、僕に揺さぶりをかけたわけだ。
僕は、自分が父さんから話を訊き出すつもりで、逆にまんまとハメられたわけだ。
そう思うと腹の底から悔しさが込み上げてきた。熱が上がりそうになる。拳を握り締めて何とか平常心を取り戻そうとするも、しばらく収まりそうにない。
そして思い出してしまう。彼女への思いを洗いざらい話してしまった事を。
父さんはあの時、自分が既に知っていることを僕の感情付きでなぞっていただけだったんだ。
僕は、自分の感情を曝け出してしまった事を後悔した。
そして、言いようのない屈辱を感じた。
父さんは、そんな僕の心を踏みにじって、僕を殺そうとした挙句、この村に捨て去った。僕が差別されるであろうこの村に。
父さんの残酷さを目の当たりにし、僕は邪悪な笑みを浮かべてしまっていた。
なんだ、父さんも口では正論ばかり吐いていたが、実際は暴力で片付けようとした最低な野郎じゃないか。
僕は悪運強く生き延びた。まさか僕が生きているとは思っていないだろう。
今度は僕が殺しに行ってやる。最期には是非、弁解が聞きたいな。そしてそれを踏みにじった上で殺すんだ。そうだ、それでいい。
僕は、生きる意欲が湧いてきたのを感じた。
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