小説 平穏の陰 第四部(3)
此処を抜け出すと決めた日の前夜、僕は、先生への感謝の気持ちを手紙に綴り、脇机の引き出しにしまった。
そしてひたすら、夜が明けるのを待った。
荷物は既に纏めてある。足の筋肉もできる限り鍛えておいた。
外に出るのがかなり久しぶりのため、気温による消耗が少し心配だが、取り敢えず明日一日だけ何とかなればいい。
僕が父さんに捨てられたのは、高等学校に進学して少し慣れてきた頃の初夏だった筈なのに、もう山々は紅葉し、空気は肌寒かった。
空が僅かに明るくなったのを見て、僕は窓から荷物とともに外へ出る。
この村は平屋が多く、この建物もそうだったから、難なく地面を踏むことができた。
そして、或る山の麓にある小屋まで静かに走り、息を潜めて待つ。待っているのは、腰にホルスターを下げて現れる例の男だ。
僕が観察した限り、その男は決まった曜日の早朝に、この山に入ることがわかっている。山仕事でもしているのだろう。
僕はそいつを襲うつもりでいた。
先生の家のキッチンから盗んできた刺身包丁を静かに取り出す。刃渡りは長く細く、これで刺される事を想像すると身震いがした。僕は今それをやろうとしている。
男がのっそりと姿を現す。ルーティンと化した作業では特別な注意を払うことはない。
そいつが山道へ入ろうとするその瞬間に狙いを定め、小屋の陰から静かに走り出す。
そして後ろから素早く、走った勢いそのままに体重をかけて、刺身包丁を腰の左側へ刺し込んだ。刃はすんなりと奥深くまで呑み込まれていき、思っていた程の手応えは無かった。そして、男が声を上げるよりも先に、右側のホルスターから拳銃を抜き取る。
何度もシミュレーションしたんだ。手際よくやれた。
男を刺した包丁はそのままに、拳銃は上着の内側に隠して、男が崩れ落ちるのを見届けることなく、僕は村の出口へ向かって走った。
この村から僕の町までは山を3つ越えなければならない。
先生との雑談で、この辺り一帯の地図を見せてもらった時、驚いたものだった。
父さんは、夜中に山を3つも越えて、僕を捨てに来たわけだ。車とはいえ、そこそこの距離がある。ということは、父さんも計画的にやったわけだ。いつから考えていたのかは知らないが。
僕はこの距離を、これから歩いて帰らなければならない。幸い、車道が整備されているから、道は悪くはない。夕刻には町へ入るつもりでいた。
空が明るく青くなってきた頃、車道の脇を歩きながら思いを馳せる。
あの男は今頃、先生の元へ運ばれているだろうか。先生に教わった通り、急所は外した。すぐに助けを求めれば助かる筈だ。
先生は、自分のキッチンの包丁が凶器だと知ったら、どう思うだろう。僕がやったと知ったなら、どんな感情を抱くだろう。
恩を仇で返した最低な奴だと思うかな。いくら人が好きな先生でも、僕のことは嫌いになるかな。手紙を残したけれど、読まずに捨てるかな。
そう思うと心臓がキュッと縮むように痛くなり、涙が流れた。
ごめんなさい、先生。
だけど僕はもう振り返らない。
早く村から離れたくなって、僕は足早に山道を登った。
陽が傾き、星がちらつき始めた頃、予定通り町に入ることができた。
途中、何度か休憩はしたが、何も飲まず食わずだった。
取り敢えず、通学路にある公園で水を飲む。
この公園は、父さんに彼女の事をどう問いただすかを考えていた時にも寄った場所だ。
あの時、僕を遠巻きに見ていた子供たちは、もう家で夕食を心待ちにしている時間帯だろう。
僕はベンチに座り、一息ついた。そして心を整える。
感情的になってはいけない。感情が昂ぶり過ぎては手元が狂う。
努めて冷静に。何を言われても動じない鉄の心で。冷酷に、ただ任務を遂行する兵士のように。後先の事は考えない。今日、このひと時のみに集中する。
そして僕は、上着の内側に隠した銃を手で確かめた。重く冷たい鉄の感触。それは、誰もに等しく無慈悲な死を与える暴力の重みがあった。
夜になり、家に着いた。
ダイニングの明かりが点いている。できれば父さん一人だけであってほしいが、どうだろう。余計な殺しはしたくない。
僕は、自分の部屋の窓を小さく割り、外から鍵を開けて中へ入った。割れたガラスを踏むザリザリとした感触が僕を高揚させる。勿論、父さんはこの不審な音にすぐに気づいた筈だ。どういう準備で現れるだろう。僕は震えた。これが武者震いというやつか。
僕は両手で拳銃をしっかりと構え、一歩ずつ静かに歩き出した。
どんな怪物が出てきたとしてもすぐに反応できるよう、神経を集中させる。
自分の部屋から出て、短い廊下を踏みしめながら進むが、一向に父さんは現れない。そろそろダイニングが見えてしまう。暗闇に慣れていた僕の目には、ダイニングの明かりはとても白く眩しく見えた。
覚悟を決めてダイニングに入ると、父さんは食卓の椅子に座り、平然と珈琲を飲んでいた。キッチンに立つ時には必ず着る、お気に入りの白衣を纏っている。
しかしその目つきは酷く殺気立っていて、僕は、圧倒的優位に立てる筈の銃を持っているにも関わらず、視線だけで威圧された。
さすが父さんだと思い、僕は嬉しくなってしまう。これから殺す相手なのに。
「まさか生きて戻るとはな」
それが父さんの第一声だった。
ふふふ、と笑い出したいのを堪え、
「ガラスが割れる音は聞こえただろう?どうして見に来なかった」
と見下すように問う。
未だかつて、父さんに向かってこんな偉そうな物言いをしたことがない。父さんの眉が動くのがわかった。その一挙手一投足を観察するのがこの上なく愉しい。
父さんは鼻で笑い、
「お前の足音は耳が腐るほど聞いてきたからな。見に行くまでもない」
そう言って椅子から立とうとする。
僕は引き金の指に僅かに力を込め「動くな」と言った。脅しではない。動けば勿論、撃つ。
父さんは静止し、心底、失望した目を向けて僕に言う。
「あれほど暴力だけは振るうなと言ってきたのに、お前は俺の教えを何一つ聞いていない。やはり……生身の人間は手に負えないな」
生身の人間、という言い方が引っ掛かった。対義語は、人形、か。だけど今はそんな事はどうでもいい。
「父さんが僕を殺そうとしたからだ。そんな事をしなければ、僕はここまで暴力的になることはなかった」
父さんはしばらく無言で僕を睨んでいた。しかしそれは単に睨んでいるだけではなく、僕の姿を通して過去の様々な経緯を思い返しているようだった。
そして、ふっと目を逸らした父さんは、冷静さを取り戻した目で呟いた。
「お前が人形の存在に気づかなければ……人形に魅入られなければよかったのにな。お前は異常性愛の持ち主だ」
思わず呻いてしまいそうになる。それは自分でもわかっているからだ。心を抉られるような思いだったが、ぐっと堪えた。
「お前は俺の研究を阻害する要因となり得た。しかも人形への性愛というくだらない理由で。自分でもおかしいと思っているだろう?だが俺にはわかった。お前は異端なんだ。お前は――」
父さんはここで一呼吸置いた。そして静かに、凄むような口調で言い直す。
「お前は、俺の子ではない。あの村で生まれた子だ。この町の広場に捨てられていたのを、俺が興味本位で拾ったんだ」
僕は思わず瞬きを忘れ、呼吸も忘れて、父さんが立ち上がるのをただ見届けていた。頭が真っ白になったとはこの事だろう。
何かが瓦解するような感情に囚われる。
引き金を引くタイミングを逸したと気づいたのは、少ししてからだった。
頭と感情の整理がつかないままに、父さんは次々と語りだす。
「我々人間は、愚かにも他者を虐げなければ、生の充足を得られない生き物だ。他者を捩じ伏せることで己に存在価値を見出し、特定の誰かを虐げることで共同体は調和する。最初はお前を、その『特定の誰か』に仕立て上げようと思っていた。いわゆる生贄だ。しかし、生身の人間を使うのは手間暇がかかりすぎた」
あぁ、そうか。だから彼女ら人形を造ったんだ。愕然とする感情のさなか、細かい話は頭に入ってこないが、意外と冷静にそんなことを思う。
さっきまで溢れんばかりだった憎悪も殺意も、何故か薄まっていくような感覚に陥っていた。これが虚無感だろうか。
「お前を見ていてよくわかった。何故、灰髪の子供が差別されるのか。何処か狂っているところがあるんだ。忌み嫌われる存在は、大人しく実験台になっていればよかったんだ」
父さんがゆっくりとこちらに近づいてくる。
まずいと思った。今度こそ確実に殺される。
だけど何故だろう。頭ではわかっているのに身体が動かない。脳が指示を送っているのに手足が反応しない。
一体何に、これほどのショックを受けているというのか。自分でもわからない。
今度こそ、このまま死んで楽になってしまいたいという誘惑に駆られる。何も感じなくなってしまいたいと。
だけど――
父さんは愚かだった。何も武器を持っていなかった。
素手で僕を押し倒し、馬乗りになって首を絞める。
最後の最後になって、どうしてそんなに愚かなんだ。そこに父さんの愛情すら感じたほどだった。
僕は父さんの腹の下で引き金を引いた。
父さんは大量の血液を僕の上に流して、死んだ。
しばらくの間、茫然自失としていたようだ。
僕は拳銃を両手で握ったまま、血溜まりの中でうつ伏せに倒れている父さんの傍に座り込んでいた。
父さんの血液が服に身体にべっとりとついていて、取り敢えず洗い流して服を着替えなくては、と思った。
その前に父さんの服をまさぐり、地下室のカードキーを取り出す。
仰向けに寝かせ直した父さんの顔は、思いのほか穏やかだった。今にも寝息を立てそうなほどに。
「父さん……ごめん……ありがとう」
父さんの顔を見ながらそんなことを呟く。どうして感謝の言葉なんて出たのだろう。父さんからは酷い目に遭わされたし、酷い事も言われたのに。
……だけど、何と言われようと、僕にとっては貴方が僕の父さんだった。
父さんへの憎悪は、今となっては不思議なほどきれいに消え去っていた。
シャワーを浴び、服を着替える。
不思議と今は、何の感情も湧いてこなかった。
ただ、少しの喪失感を感じた。この広い家から一つの存在が消えたという喪失感。家の中も僕の心も静まり返っていた。
カードキーを持ち、地下へ降りる。
入口のスロットに通すと赤いランプが緑に変わり、ドアのシリンダーが回る音が聞こえた。
重い鉄のドアをゆっくりと開けて中へ入ると、薄暗い中、真っ先に目に入ったのは、部屋の中央に立ちはだかる10台はあろうかというモニターの壁だった。
部屋の大きさは6畳程度だろうか。かなり狭く感じる。その中央に黒い横長の作業机があり、それを扇形に取り囲むように縦に2段に渡って、大きなモニターが設置されていた。しかしどのモニターも真っ暗で、何も映ってはいない。
部屋の両脇には天井にまで届く本棚が据え付けられていて、辞典のように分厚いものから文庫本のような小さなものまで、あらゆる本がぎっしりと詰まっていた。
部屋の照明を点けてもどことなく薄暗い雰囲気だったが、モニターの壁の奥にまだ空間がある事がわかった。
本棚とモニターの壁の隙間を、服を引っ掛けないように注意しながら進むと、同じ作業机がもう一台あり、その上に黒髪の女性がひとり、こちらに背を向けて寝そべっていた。いや、女性、というのは正確ではない。それが人間でないことはすぐにわかった。彼女の服の後ろが縦に開いていて、丁度、背骨に沿う形で黒いケーブルが何本も挿し込まれていたのだ。
髪の長さは丁度肩にかかるぐらい……見覚えのある背格好と黒髪だったから、すぐに藤堂先輩と同じ型の人形だと直感した。
彼女の前へ回り込むと、顔は髪で覆われるようにして酷く乱雑に寝かされていた。
僕は彼女の前に跪き、その乱れた髪をそっと耳にかけた。目は虚ろで昏い。起動していないものと思われた。
そして頬に触れる。冷たいけれどさほど硬くはない。そのまま彼女の目の下瞼を親指で押さえると、白眼の部分に母さんのサインが入っていた。実はこのサインは、僕の左眼の義眼にも入っている。
母さんが造った証——。この個体は、母さんが造ったプロトタイプなのだろう。
薄く開いた唇は艶やかで、見れば見るほど、触れれば触れるほどに彼女が愛おしく、自分の中に抑え込めない感情が湧き上がる。
僕は、この期に及んでまだ彼女に惹かれているらしかった。
こんなに近くで彼女を見ることができるなんて。そう思っただけなのに、気づけば彼女の瞳を覗き込むように近づき、そっと唇を重ねてしまう。
ひんやりとした柔らかい感触とともに、人形を愛してしまっている自分に僅かな嫌悪感を感じた。父さんが最期に言い放った言葉を思い出す。
そう、僕は何処か狂っている。父さんを殺して間もないのに、こんな事をやっているのがその証拠だ。
自分でもこの感情の出処がよくわからないのだが、愚か者であることには間違いない。だけどこの時の自分の気持ちを素直に表現するとするならば、生贄を量産する残酷な研究者を殺し、その実験台から彼女を救い出せた事に満足していた。
そう思うと安心したのだろうか、急に眠気が襲ってきた。
そうだ、僕は寝不足だった。
昨日の夜から一睡もせず、早朝に人を刺し、その足で山を3つ越え、夜には父さんを撃ち殺したのだ。
すべて、念入りに計画した通り、達成できた。本当によかったと思う。
十分に満足した僕は、彼女の置かれている作業机を背にして座り込み、しばらくの間、深い眠りに落ちた。
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