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小説 舞闘の音 第二幕(一)

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私の自宅は、4階建て12戸の小さなアパートの最上階にある。東端の部屋で、朝は陽が差し込むが、それ以降は基本的には薄暗い。内壁が剥がれ落ちてコンクリートが剥き出しになり、廃墟同然――というか、廃墟そのもので生活している。このアパートには私の他には誰も居ないし、周囲の建物も崩壊しているものが多く、少なくとも半径 300 m 以内には人は住んでいないように思われた。
一人で住むにはやや広い間取りだが、私は殆どシャワー室と寝室しか使っていなかった。水圧の低いシャワーを浴びて簡素なベッドで眠るだけ……だけど寝室の大きな窓から見える景色が好きで、任務の無い日にはやはりお気に入りハーブを吸いながら、ぼんやりと眺めたりする。さすがに通信塔からの眺めには負けるけれども、灰色の瓦礫の中にぽつぽつと残る建物と、それらを照らす黄金色の陽光を見ていると、不思議と心が洗われるような気がするのだ。何より静かな事がよい。日頃、音楽を聴きすぎているせいでもあるのだろう。
――とそんな所へ、聞き慣れた足音が近づいてくる。この場所を明かした事があっただろうか、と記憶を辿ってみるが思い出せない。しかし彼ともこの義手と同じく十年以上の付き合いだから、何かの拍子に話した事があるのかもしれない。扉の前で足音は止まり、恭しいノックの音が聞こえた。
やけに礼儀正しいな、と思いながら少し扉を引き開ける。するといつも爽やかなはずの BlueBird 君は外套のフードを目深に被り、顔は血で汚れていた。珍しい事もあるものだな、と思っていると彼は「シャワーを借りたい」と言う。私は思わず目を細めた。彼の意図がわかるのだ。
先日、集落を壊滅させたあの日、敵を思う存分切り裂いて快楽の絶頂にいた私は、敵を全滅させてもなお余りある殺意――いや、殺意では足りない。これを殺欲と表現したい――を発散させるべく、彼に滅茶苦茶にしてもらおうとお誘いしたわけだが、今度は彼が自分の殺欲を持て余して私を利用しようとしているのだ。私からの誘いは断っておきながら自分は欲望を完遂しようとする身勝手さに僅かな苛立ちを覚えたが、断る理由は無いので家の中へ入れてやる。扉を閉め、一言言ってやろうかと振り向いたところで私は扉へと物凄い力で押さえつけられた。首根に彼の右前腕が食い込む。彼が本物の殺意を向けていたなら、私の首は落ちていた事だろう。返り血を隠すように深く被ったフードの下から、今にも獲物に喰らいつこうとする蛇のような双眸で「今からいいか」と形ばかりの意向確認をする。彼がこんなに殺気を垂れ流すなどやはり珍しい。一体何があったのか、誰を殺ったのか、俄然興味が湧いてしまった。彼は鼻先が触れるほどに、吐息が届くほどに顔を近づけてそう言うものだから、私は口づけて返した。よくなければ最初から家に入れたりなどしない。彼は歯が当たるほどに強く押さえつけてくるものだから、本当に喰うつもりではなかろうなと訝しんだが、彼は自制心のある男で、ある程度満足した後、よほど血の匂いが気に障ったのか、自ら進んでシャワーを浴びに行った。

私達は、凶器であり仕事道具でもある大事な双腕をベッドの上に置き、私達自身は固い床の上で睦み合った――なんて生易しいものではない。お互いの暴力性を解放し合った。両腕の無い私達のその行為は、まさしく蛇のようでもあっただろうと思う。私は彼の欲望を全身に受けながら、彼をこんなに感情的にする出来事とは何かを想像した。例えば……長年憎悪してきた相手をついに滅茶苦茶に潰す事ができたとか、もしくは殺りたくない人を殺らなければならない悲劇に見舞われた、とか……。ここまで私に暴走する感情を押し込んでいるのだから、私には知る権利がある筈だ。
溺れるほどの殺気を浴び、溢れるほどの殺意を捻じ込まれ、私は息が上がっていた。死を少し近くに感じる。そしてよからぬ言葉が頭に響く。
――彼に殺してもらいなさい。そうすればもう生きる苦しみに喘ぐ必要はない。汚れながら生きなくて済む。この先どんな無惨な死に方をするかわかったものではないのだから、このあたりで手を打ってみては――
私の頭に棲みつく死神の言葉。艶めかしい声で、死の女神がそう囁く。
甘美な死への誘惑に抗いながら、自我を手放すまいと歯を食いしばって耐えていたが、やがて徐々に思考は回らなくなり、ただただ快楽を求めて絡みつくだけの蛇と化し、ついには規則的に声を上げるだけの生き物と成り果てた。

嗅ぎ慣れた苦いハーブの匂いで目を覚ますと、B.B.BlueBird はベッドの端で私に背を向けて座り、既に義手を装着してハーブを吸いながら、大きな窓から外を眺めていた。丁度数時間前に私がそうしていたように。
私はというと飽きられた人形のようにベッドの上に放り出されていた。布もかけてもらえず、勿論、義手も装着していない無防備な姿で。まったく酷い扱いだなと嘆息したくなったが、それよりも先に注意すべき事がある。
「人の部屋でそのハーブを吸うなよ」
私はやや苛立ちを演じながら言った。彼は横目で私を見やり、
「起きたのか」
と言って右手でハーブの火を揉み消す。私は手近な布を噛んで引き寄せ、簡単に身を包むと、彼に詰め寄った――ん?こうして詰め寄れるという事は、彼は私が目を覚ます前に帰る事はなかった……のはよかったと思うべきか。そういえば私達は床に転がっていた筈なのに気づけばベッドの上に居るし、もしかするとこれは彼なりの優しさか?という思考が一瞬よぎり、心持ち口調を和らげて問う。
「ねぇ、何があったの?誰を殺ったの?」
私は姿勢をやや低め、上目遣いのような格好で彼の目を覗き込む。彼も私を見ているが微妙に視線が合っていない。僅かに逸れている彼の視線は私の左肩に注がれている気がしてふと見てみると、左肩には彼の噛んだ生々しい傷痕が残っていた。これを首に食らってなくてよかったな、というのが率直な感想だが、彼も呆然と見ていたから恐らく無意識だったのだろう。別に気にしていないていで再び彼を見ると、少々バツが悪そうな顔をして彼も再び窓の景色へと視線を戻し、肺に溜まっていたハーブの煙を全て吐き出すように長い溜息をひとつついて、
「俺の両腕を切り落とした奴を惨殺した。指揮官の命令じゃない。私怨の殺しだ」
と言って眉間に鼻筋に皺を寄せ、怒りを滲ませた。私は自分の腕を切り落とした奴を見る事などできなかったから、
「把握していたのか」
と訊くと
「俺の元上司だった男だ」
彼は意外とあっさり答えた。
上司。仕事上の人間関係。私が彼と初めて出会ったのは例の研究施設の屋上で、その時既にお互いに義手だった。それが15歳の頃。彼はその年齢で既に労働を経験していたという事になる。私がのうのうと親に養われいてる間に。彼は労働していた理由については語らなかったが、その上司の事については大まかに語ってくれた。
「俺が奴の下に就いた時、奴は成人したばかりだった。しかし当時の俺にとっては相当な大人に見えた。だから奴の指示には全て意味があるのだと信じた。多少不可解な、理不尽な指示があっても、何か理由があるのだろうと勝手に意味付けすらした」
僅かに俯き、そう話す彼の横顔を私は見つめた。目は昏く、彼の目には当時の状況が映っているものと思われた。彼は続ける。
「仕事は――主に肉体労働だった。奴の下には俺を含めて5人の部下が居たが、白の民は俺一人だった。しかし当時はそんな事は意識に上らなかった。差別がある事など知らなかったからだ」
わかる。私もそうだった。そう教育されていたからだ。褐色の民によって。
「奴らの民族とは身体の出来が違う。当時の俺は健気にも精神力で乗り切ろうとしたが、当然、限度があった。だから俺は落ちこぼれ、虐げられた……いや、最初から何かおかしかった。奴は端から俺を嬲るつもりで自分の下に加えたんだ」
それ以上は口を噤んだ。言いたくない酷遇が、思い返したくない屈辱が、彼の脳に纏わりつくのだろう。その記憶は次第に彼を苛つかせ、半ば八つ当たりをするように彼は私の喉元を右手で掴み、凄んで聞かせた。
「知っているか。奴らが人の腕を切り落とすのは、犬にすらなれない下等な動物だと見せしめる為だ。我々は犬のように従順に奴らの定めた規律に従っているうちはそれなりの自由と権利を与えられるが、ひとたびその秩序を脅かそうものなら――この仕打ちだ」
彼は腕力で捩じ伏せるようにそう捲し立てた。彼の義手の関節に私の首の肌が食い込み、不快に軋む。このシチュエーション、例の研究施設であの女が私に言って聞かせてきた事を思い出す。どうやら私には、他者がこぞって思考を、価値観を押し付けたくなるような隙があるらしい。あの時は女の腕を斬り落としたが、今の私に双腕は無く、このまま捻り潰されては堪らないので大人しくしていた。義手を取り付けてから彼を問い詰めなかった事を後悔したが、今更仕方がない。言葉で言って聞かせる。
「その屈辱はよく解る。私にも似た経験があるから。身体が強い奴らには弱い者の事など微塵も理解できる筈がない。その体験が無いのだからな。我々だって、奴らが何故、通信設備を使わないのか理解できないのと同じだ。その方が好都合だがな」
と鼻で笑ってみせた。
褐色の民は精密機器を扱えないというのが我々の共通認識だった。それ程の頭脳は持ち合わせていないのだろう。それ故、奴らは身体は頑健な癖に統率のない烏合の衆に成り下がっている。一生、馬鹿でいてくれる事を祈るばかりだ。
「確かにな」
彼は同意し、右手を緩めた。首元が解放された私は改めて息を吸い直し、
「で、そいつを殺って気は晴れたのか」
と訊く。彼は身体ごと私から逸らし、しばし沈黙した。バツが悪くなると窓の外を眺めたくなるようだ。そして遠い目をして重々しく口を開く。
「奴を殺っても、結局は自分の頭の中に屈辱がこびりついている。これを焼き尽くさない限り幸せにはなれないのだろうな」
幸せ、か。珍しい言葉が出たものだ。センシティブになっている。さっきの脅迫的な態度に反撃したくなった私は、思わず挑発してしまう。
「私が頭をぶっ飛ばしてやろうか」
言ってから、あぁ、腕を付けてから言うべきだった、と再び後悔した。何か言い返してくるかと思ったが、彼は軽く鼻で笑い、
「その時が来ればな」
と微妙に意味が解らない事を言って、立ち上がった。背中越しにひらひらと軽く手を振り、外套を羽織って私の前から立ち去る。そのまま入口の扉の開閉の音が聞こえ、足音は遠ざかっていった。
足音が完全に聞こえなくなるまで、私はぼんやりと彼の言葉の意味を考えていた。もしかして彼も死神に憑かれ始めているのではないか、そんな疑念を抱いたが、まさかな、と打ち消す自分も居る。結局は人の心の事などわかる筈がないのだから考えても無駄か。
私は義手を装着し、ベッド脇に置いているハーブを手に取り火を点けた。B.B. が来たのは明け方だったが、今はもう朱い夕陽が灰色の無人の町を照らしている。静かで美しい。その景色を見ながら首と左肩の傷を労わりつつ一服し、夕食の前にシャワーを浴びようと思った。

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