小説 舞闘の音 第一幕(二)
その人は何曲か演奏して一通り毒を撒き散らした後、気が晴れたのか、歌とは真逆に思える繊細な手つきで楽器を仕舞い、静かに立ち去った。私は昂る感情を鎮めながら、その人の姿が見えなくなるまで呼吸を忘れて見届けていた。まだ身体が火照っている。不意に涼やかな風が吹き、夕闇が迫っている事に気づいた私は、急いで母から言いつけられた品物を買い、帰宅した。
家に帰っても私はまだ興奮していた。指先に力が宿っているように感じる。帰りが遅くなって母に小言を言われた気もするが、そんなものは右から左へと擦り抜けた。半ば浮ついた気持ちのまま夕食を終え、寝支度を整え、布団にもぐる。その間もずっと、あの人の鳴らした音楽が、歌が、延々と頭の中を巡る。布団の中は温かくて心地よかった。自分の身体の温もりがとても愛おしく感じる。理由はわからないが、根拠のない自信と安心が私の心を癒し、万能感に包まれて眠った。
次の日も、その次の日も、しばらくの間はその人の音楽が頭の中を流れ続けた。そして無意識に口遊む。攻撃的な言葉を。暴力的な歌詞を。それらを口にする度に、私の中に渦巻いていた屈辱が、日頃の鬱憤が、少し晴れていく気がした……いや、むしろかえって増幅していく気もした。
私は踊りたくなった。今度こそあの子と同じように。あの子の側で舞い、この腕と爪で、あの子を切り裂けたならどんなに気持ちがいいだろう。私が受けた痛みをあの子にも味わわせる事ができたなら——。そんな妄想をしていると、また母から買い出しを言いつけられた。またあの人の歌を聴けるかも知れない。そう思った私は、今度は心弾む思いで商店街へ向かった。
先日見た場所に、その人は居なかった。
やや気落ちしたが、そんなに都合よく会える筈も無いと思い直し、言いつけられた品物を買うべく商店街の奥へ進む。すると目的の物を見つける前に、或る金物屋に置かれていた小さなナイフに目を奪われた。刃渡りは親指より少し長いぐらいで、金属製の柄の部分は4本の指がフィットするよう、くぼんだ形に成形されている。そして柄から刃の背にかけては植物の蔓のような細やかな装飾が施されていて、骨董品のようにも見えて美しかった。
その品物に見惚れていると、何処からともなく、心臓に響くような低音を微かに感じた。それは律動し、音楽だと思った。何処かで音楽が鳴っている。私は、身体に響く僅かな振動を頼りに音の出処へ向かった。すると商店街から脇に逸れた薄暗い小道に、建物の壁を背にしてもたれかかる、黒い布を被った例の男の姿を見つけた。
あの人だ、と私は思ったが、声を掛けるほどの勇気はない。だが男の傍で足を止めてしまったため男の方も気づき「お客さん?」と私に訊いた。第三者から見れば怪しい取引の場面に見えたかもしれないが、私はこの人が歌を歌う人であることは知っていたので、咄嗟に否定する事はなかった。しかし肯定する事もできず、まごついていると、その男は白い歯を見せて嬉しそうに笑い「どうぞ」と言って腰をかがめ、恭しく建物の入口を案内した。この時に初めて男の顔を見る事ができた。高い身長の割には子供っぽい、親しみやすい笑顔だと思った。
中へ入ると部屋全体に低音が鳴り響いていた。照明は蒼く暗く、足元に注意しなければ蹴躓いてしまいそう。部屋の奥には小高いステージがあり、其処には金属製の円盤と大きな筒が組み合わさった楽器が、まるで巨大な蜘蛛のように脚を広げて立っていた。後にそれを drums と呼ぶ事を知ったわけだが、その蜘蛛に跨り、両手に撥を持ってしなやかに打ち鳴らしている男が居る。その左隣には、先日見た六弦の楽器に似た——しかし弦は四本の物を左肩から下げ、腹の前に構えて演奏する男が居た。彼がこの低音を弾いているらしい。そうやって2人はお互いの間合いを図りながら協奏していた。
初めて見る光景に私は胸が躍った。何か未知の出来事が起きるに違いない。そんな昂る気持ちを抑えながら、ゆっくりとあたりを見回す。部屋の大きさとしては50人位は入れそうだが、客は私を入れて7人。あまり人気は無いらしい。座れる場所は無かったから立ち見だと思われた。皆、私より歳上に見える男女ばかりで、中には本当に音楽を聴きに来たのか疑わしいほどに険しい顔をした白髪交じりのおじさんも居たから、私は目立たぬよう一番後ろの壁際に立ち、身に纏った布の下で祈るように手を組んだ。何となく手を組んでいなければ鼓動が落ち着かない気がした。
少しすると今度はステージの右袖から、これこそ本当に六弦の楽器を携えた男が入ってきて、おもむろに奏で始める。その音は大きく派手で、急に場が華やぐのがわかった。数少ない客も僅かに色めき立つ。続いて入口に居た例の男が、黒い布を被ったまま入ってきて中央に立った。そして独り言を呟くような低い声音で挨拶をする。
「今日は来てくれて本当に有難う。今日は君らを——刺しに来た」
言葉の真意を考える間もなく彼らは目の色を変え、一斉に楽器を鳴らし始める。それは想像以上の爆音で、ステージから風圧を感じたほどだった。
私は音楽を浴びた。肌の上をビリビリと音波が撫でてゆき、それがくすぐったくも気持ちよくて鳥肌が立つ。鼓動は大きく早くなり、血液が全身を駆け巡って汗が噴き出した。音楽の律動と自分の鼓動が同調し、身体の制御を持っていかれるようだと思った。そして中央の男は、入り口で見せた明るい笑顔とは打って変わり、人を刺し殺しそうな目で歌う。
敵を愛し そして殺せ
見下されたなら 嗤い返せばいい
すべてを凌駕し 捩じ伏せたなら
高らかに歌え この歌を
彼の豹変ぶりに私は魅入られてしまった。そして暴力的な、しかしどこか妖艶な歌詞が私の心臓を握る。噎せ返るほどに香しい情動が私を包んだ。
そして彼と目が合ったと思った。実際にはどうかわからない。だけど私にはそう見えた。狙撃手と目が合ったかのような戦慄が走り、しかしどういうわけかそれが至極の快感でもあった。彼は大きく口を開いて牙を剥き出し、獲物に喰らいつくように歌い続ける。
自らの傷を愛せ
屈辱を両腕に込め 敵を切り裂け
母や父に癒やしを乞うな
敵を薙ぎ倒せ、と。
演奏は30分ほどだった。全身に殺気を浴びた気がした。自然と指先に力が宿る。何か制御しがたい得体の知れない力が身体から溢れ出るようだった。
会場を出た私は殆ど無意識に金物屋へ戻り、母から握らされた金銭で、先ほど見ていた美しいナイフを買った。そして人目につかぬよう自身の布の下で右手を開き、柄のくぼみに4本の指を当てナイフの背に親指を乗せる。それは私の手によく馴染み、まるで手指の延長のように感じた。
これであの子に仕返しをする——
母から言いつけられた買物の事などとうに忘れ去っていた。ナイフを握った右手を布の下に隠したまま、腕を振らずに私は静かに走り出した。来た道を戻り、例の広場へ向かう。あの子が今日も居るかどうかなんて関係ない。ただ無心に広場へ向かった。身体は火照っていたが、心は不思議と静まり返っていた。
広場の入口に立ち中を見やると、先日と同じ場所に同じ格好であの子が舞っていた。一瞬、どうして彼女はいつもこの場所で舞っているのか、という疑問が湧いた気もするが、その思考を感情が遮った。私は笑っていた。笑い声を噛み殺すのに苦労するほどに。
彼女への最短距離を一気に駆ける。彼女が私に気づいた時には既にあと数歩の距離まで近づいていた。彼女には舞の慣性が働いており、逃げようにも受け身を取ろうにも完全に出遅れていた。私は布の下から右腕を出し、彼女の顔面目掛けて真一文字に振り払う。彼女は咄嗟に両の瞼を閉じ、その瞼の上を切先が撫ぜた。ナイフの先から彼女の瞼まで、赤い糸が軌跡を描く。その瞬間は時間がゆっくりと過ぎゆくようであり、その光景は私の脳裏に深く焼き付いた。
彼女は呻いただろうか、叫んだだろうか。その時の私には何も聴こえなかった。無音だった。あれほど頭を巡っていた音楽も今は鳴っていない。
静寂の中、ゆっくりと崩れ落ちる彼女を見ながら次の一撃を振り下ろそうとしたところで、私は羽交い締めにされた。両腕を締め上げられ、そのまま仰向けに引き倒される。誰かは知らないが、数人がかりで私を抑えつけようとしているらしい。私は文字通り死に物狂いで暴れた。此処は異民族の溜まり場。必死で暴れなければ殺されてしまう。このまま大人しく殺られるつもりなんてない。しかし私の記憶は此処で途絶えた。
何故そんな暴挙に出たのかと訝しむ人もいるだろう。だが、当時の気持ちをこう表現したい。
酒に呑まれるという言葉があるだろう。この時の私は、音楽に呑まれたのだ。