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小説 平穏の陰 第二部(1)

12歳になった頃、僕は地元の中等学校に進学した。
僕が入ったクラスは男女共学で20人。割合は丁度半々だった。
皆、髪の色も目の色もまちまちだが、話す言語は同じだった。
この頃には母さんに造ってもらった義眼もすっかり馴染んでいたから、何の違和感もなくクラスに溶け込む……筈だったのだけれど、撃たれた時の記憶が脳裏にこびりついたまま、それは心にも深刻な傷を残しており、すぐには他者との距離を縮められずにいた。
結局これまでに僕にできた友達は、例のトカゲ君ただ一人だった。いや、彼には、斎藤 龍巳たつみという相当格好いい名前がついていた。龍なのか蛇なのかはっきりしてほしい……というのは僕のふざけた感想で、彼は彼で、今は別の学校へ進学している。

ともかく、こうして友達づくりにすっかり出遅れた僕は、周りが仲良くなって幾つかのグループにまとまっていくのを無感動に見届けていた。
僕もどこかのグループに所属した方がいいのだろう。少数派はどうしたって不利だから。ひとり、正義を貫いたところで撃ち落とされるだけだ。この辺りの適度ないい加減さも、龍巳君から学んだことだった。

僕は、どのグループに属すべきかを観察をした。
しかしどのグループもしっくりこない。会話に入れそうにない。というより、そこで繰り広げられる話題に殆ど興味が湧かないのだ。
皆、楽しそうに話しているけれど、それは本当に楽しいのだろうか。もしかして少数派にはなりたくないという強迫観念から、取り敢えず何でもいいから会話を続けることで絆を保っているのではないだろうか。それが生存戦略か。
僕はひとまず手近なグループにジャブを打つ感覚で話しかけてみた。
最初はなかなか友好的だ。いやもしかして愛想笑いか?
いやいや、今まで他人に無関心で一人でいた奴が急に話しかけてきたのだ。その戸惑いはわかる。これから少しずつ距離を縮めていこうではないか。
そう思って数日にわたり、少しずつ話してはみたものの、自分の話がつまらないのか、それとも心から仲良くなりたいとは思っていないのが透けて見えるのか、どことなく距離を感じる。いや、距離を取っているのは自分の方か。

何日か経って。
気を取り直して今度は別のグループに話しかけてみた。だけどやっぱり同じような反応だ。どうにもしっくりこない。
すると、前に話しかけたグループから、何やら僕の噂話が聞こえた気がした。内容まではよく聞こえないが、人を嘲るような独特の空気を感じる。
何だ、何が可笑しい?そう思ったものの、僕の噂話をしているという確証はないし、しばらくは気づかぬふりをしてやり過ごしていた。
しかし気分は悪い。いっそ白黒つけに行くか?いやいや正直に答えてくれるわけないだろう……などと、まったくもって本意ではないことに頭を悩ませていることに気づいた僕は、何だか馬鹿らしくなって、多数派に紛れ込むのを一時断念し、休み時間は図書室で過ごすことが多くなっていった。

図書室は快適だった。
皆、ひとりひとり、他者を気にすることなく、自分の世界に入り込んでいる。静かだ。
何気なく本棚を見て回っていると、人間関係に関する本が目についた。まあまあ目立つ棚に配置されている。
哲学系や心理学系、自己啓発系など、様々な観点から人間同士の適切な距離感について、思考が、いや試行が?なされている。
僕はその棚の中の一冊に手を伸ばした。タイトルは「人づきあいがしっくりこないあなたへ」。僕にぴったりじゃないか。
そう思い、硬い背表紙に人差し指を引っかけて取り出そうとした時、
「その本、私も読んだよ」
視界の悪い左側から声をかけられた。
右眼で見えるように、顔ごとしっかりと左側を向くと、知らない女子がひとり、僕の方を見ていた。
背丈は丁度同じ位で、目線の位置がぴったり合う。
真っ黒な瞳。あらゆる光を吸い込みそうな、漆黒の瞳だった。
この瞳を僕は知っている。昔、どこかで見たような……あぁ、そうか、母さんが造った人形の瞳だ。それは僕を異常に惹きつける魅力があったからかえって恐ろしくなって、見ないことにしたのだった。
それを思い出し、目線を少し下げる。彼女の制服のネクタイは、藍色の生地に赤いストライプが入っていた。
この学校は、学年ごとにネクタイのストライプの色が異なっている。藍色の生地はどの学年も変わらないのだが、僕の学年は薄い水色のストライプになっており、赤色のそれは1つ上の学年であることを示していた。
先輩だ。そう思って再び目線を上げると、彼女は本棚の方を眺めて言った。
「この棚の本は全部読んだの。でもね、役に立たなかった。現実はもっと複雑で醜くて、全然理路整然と語れるものではないの」
そう言って、哀しそうな目でこちらに問いかける。
「君も悩んでいるの?」
僕はどう答えるべきか迷った。
確かに少しは悩んでいるけれども、彼女ほど深刻ではない。かと言ってそれをそのまま答えると、そこで会話は終わってしまいそうな気がした。
何とか彼女の気を引く言葉を言わなくてはと頭をフル回転させ、ようやく僕は言葉を発する。
「この棚の本が役に立たないのなら、先輩の話を聞かせてください。僕はそこから学びます」
彼女はふふっと笑い、そんなことを言われるとは思わなかった、と微笑んだ。
そこで休み時間終了の鐘が鳴る。僕たちは自然と別れ、教室へ向かった。

次の日。
僕は、昨日と同じ時間帯、同じ場所で彼女を待っていた。
特に約束をしたわけではないから、勿論来ないかもしれない。
それは承知の上で、読むべき本のない棚の前で、ひたすら佇んでいた。
彼女は来なかった。

次の日も同じように彼女を待った。
昨日来なかったのだから、今日も来ないかもしれない。だけど何故か、来てくれることを期待してしまう。根拠は何も無いのに。
待っている間、僕は自然と一昨日の出来事を思い出していた。声をかけられた瞬間。漆黒の瞳。最後に見せた笑顔。そのひとつひとつを、頭の中で鮮明に再生することができる。
僕は既に、彼女に惹かれているのだ、きっと。
母さんの造った美しい人形に心奪われそうになった、あの時の感情を思い出す。自制するのに苦労した、あの感情を。
その日も彼女は来なかった。
そのことでかえって僕は、会いたい気持ちを募らせていった。

そして次の日。
僕はついに、自分から会いに行くことにした。
一学年上のクラスの教室へ向かう。
そこは勿論、廊下に出ている人からして皆、ネクタイに赤いストライプの入った先輩方ばかりで、僕は少々場違いな空気を感じながら歩いた。
いきなり教室を覗くのもなんだか不躾な気がして、廊下の壁にもたれてくつろいでいた男の先輩に訊いてみる。向こうもたまたまこちらに気づいたのだから、ここで話しかけないわけにはいかない。栗色の長い前髪の下から覗く、一重の切れ長の目が印象的だ。
「すみません、人を探しているのですが」
「へぇ、誰を?」
僕はこの時、名前を訊いていなかったことを激しく後悔した。仕方ない、容姿を説明することにする。なるべく客観的に。
「名前はわからないのですが、身長は僕と同じぐらいで髪の長さは丁度肩にかかるくらい。黒髪、黒目の女の先輩です。図書室で会ったから本が好きだと思います」
彼は教室へ視線を向ける。それに合わせて僕も視線を向けた。一見では居ないように見える。
「多分、委員長のことだな。一昨日から欠席している」
「委員長……」
「あぁ、名前は、藤堂 なぎという。多分、彼女のことだろう」
藤堂 凪。僕は彼女の名前を頭の中で反芻した。名前が判明したこの瞬間は、ちょっとした快感だった。
「……風邪ですか」
気になったことをもう一つ訊いてみる。
「さぁ、そこまでは。滅多に休む人ではないから珍しいけどな。おかげで委員会の仕事が滞っている」
委員会——。僕はまだ入学して日が浅いから知らないけれど、そういう役割があるのだろう。
「そうですか、ありがとうございます。出直します」
そう言って僕は一礼し、教室に戻った。

放課後。
名前がわかったことに満足した僕は、いい気分でゆったりと校舎を出た。
すると校門に、さっきの栗毛の先輩の姿が見える。奇遇だな、などと思っていたが、彼は僕を見つけるなり、ずんずんと近づいてきた。
少し緊張して歩みを止めると、先輩は「少しいいか」と言って、校舎の隅の方へ歩き出した。
僕は少しドキドキしながら先輩について行った。下校する生徒たちの声が遠くなったあたりで先輩は振り返り、そして唐突に話し出す。
「藤堂さん、亡くなったそうだ」
「え」
早歩きと緊張で呼吸が浅くなっていたこともあり、変な声が出た。すぐには理解が追いつかない。というより、突然何を言い出すんだ、と直感的に否定する自分が居る。
先輩は続けて言う。
「欠席する前日の夜に亡くなっていたらしい。自殺、だそうだ。葬式は家族葬にするらしい」
ちょっと待ってくれ。本当なのか?僕と話したあの日の夜、彼女は自ら命を絶ったのか。まさか、信じられるわけがない。
図書室で見た彼女の哀しい目を思い出したが、その表情からは今更何も読み取れない。
どうして。一体、何がそこまで彼女を追い詰めたのか。僕は知りたかった。もっと早くに知りたかった。もっと早くに出会えていれば。
いや、いくらそう思ったところで時間は戻らない。いくらそう願ったところで彼女は戻らない。

「何かあったか?」
気づくと家の玄関まで帰ってきていた。ドアを後ろ手に締めたまま、呆然としていたらしい。出迎えてくれた父さんのその声で我に返った。
先輩とはどうやって別れただろう。覚えていない。どうやって帰ってきたかもよく覚えていない。
僕は父さんの顔を見つめ、何か言わなければと思ったが、言葉が胸で詰まって出てこない。苦しい。こんな苦しさは初めてだった。

夕食時になってようやく落ち着きを取り戻した僕は、父さんの作ってくれた夕食を摂りながら、少し話す気になった。母さんは仕事が忙しいらしく、食卓には僕と父さんだけだった。
「今日、先輩が亡くなったと聞いたんだ。自殺だったそうだ」
父さんはしばらくの沈黙の後、そうか、と相槌を打った。
「仲の良い先輩だったのか」
「まだ……そこまでは……」
「葬儀は」
「家族葬だって」
一通りの事務的な会話を終えた後、僕は自分の気持ちを打ち明けた。何か助言が欲しかったんだ。もしくは慰めの言葉か。
「僕は、彼女が自殺した日の昼に話していたんだ。少しだけだったけれど。確かに深刻に悩んでいそうだった。だけど気の利いたことを言えたつもりだったんだ。少しだけ笑ってくれたから。なのに、その日の夜に……」
僕は話しながら、感情が乱れていくのを感じていた。父さんはそれを真正面から受け止め、冷静に、正しいことを言った。
「今は気が済むまで存分に悲しめばいい。だが後悔には意味が無い。時間は戻らないからな。悲しんだ後は、今から自分ができること、やりたいことを考えるんだ」
父さんの言うことは正しすぎて、時に冷たく感じる。僕が左眼を失った時もそうだった。わかってはいる。後悔する自分が間違っている。他者を憎んでしまう自分が間違っている。

僕はその夜、彼女を想って少し泣いた。

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