小説 花の意志 第3話 b. 離脱
わたしは黒ずくめの女から逃れ、元来た道を走った。
返り血を吸ったワンピースが酷く重い。肌に纏わりつく気持ち悪さを堪えながら、町へ戻った。
日はもう傾きかけていた。
町は不自然に静かだった。まるで人が消えてしまったみたいに。
すぐにでも誰かに助けを求めたかったのだけれど、誰ともすれ違うことなく、そのまま家に辿り着いた。
家のドアノブに手をかけた時、いつもとは違う空気を感じた。
誰かが家の中に居る――。
息を潜めて静かにドアを開けると、其処には思いがけず懐かしい後ろ姿が在った。
「お母さん!」
見慣れない白衣を着ていたけれども、その後ろ姿は、間違いなく見慣れたお母さんの姿だった。
お母さんは振り向くや否や、赤く染まったわたしのワンピースを見て息を呑んだ。
お母さんが驚いているのはわかる。わたしの血ではない、わたしは大丈夫だという事を伝えなければならない。だけどわたしは、言葉を発するよりも先に、やっとお母さんに会えたという安堵の方が勝り、その場に泣き崩れた。
「一体、何があったの?」
シャワー室で、まるで幼い頃に戻ったかのように、お母さんはわたしの身体を洗いながら聞いた。その声は、この状況に似つかわしくないほどに穏やかだった。
「お姉ちゃんが、昨日、家を出て行ってしまったの。わたしが寝ている間に……。町の人に捜してもらったら、下界へ行くのを見た人がいるって言うから、わたしも下界へ捜しに行ったのだけど……そしたら……」
見知らぬ男に銃を突きつけられて――そう続きを話そうと思っていたのに、急に息が引きつって言葉が出なくなり、代わりに涙が溢れ出た。
怖かったのだ。とても。首を絞められた感覚が蘇り、眩暈がする程の頭痛に襲われた。と同時に心臓が痛む。心が傷つくと心臓も実際に痛むのだと、この時初めて自覚した。
お母さんはその様子を見て、わたしの首筋から温かいシャワーをかけ、頭を優しく撫でて言った。
「わかった。もう大丈夫だから……」
お母さんがかけるそのシャワーは、汚れも、石鹸の泡も、涙も全部、排水口へと流していった。
お姉ちゃんは世の中に失望していた。
そうでなければ、『今の世の中、生きる価値はあると思う?』なんて聞いてくる筈がない。
でもいつからそう思い始めたのかはわからない。そして、どうして下界なんかへ行ったのかも……。
清潔な服に着替えながら、わたしはそのことをお母さんに伝えると、お母さんは悲痛な表情を浮かべて静かに言った。
「アズハは敏感で潔癖なところがあるから……今の無秩序な世の中に生きる価値を見い出せなくなって、死に場所を探しに行ったのよ……きっと。這いずり回ってまで生きる価値は無い、と……」
まさか――。お母さんの言葉はわたしを動揺させた。
だけどそれは、わたし自身、薄々感じていたことが、明確に言語化されたことに対する動揺だったかも知れない。
しばらくの沈黙の後、お母さんはかぶりをふって気を取り直し、わたしの目をしっかりと見据えて言った。
「アズハの捜索は救助隊に依頼するから、サナは今から私と一緒に避難しましょう。実はこの町はもう花の脅威が迫っているの。町の人も大半がもう避難している」
わたしは荷物をまとめ、お母さんの後について、近くに停めてあった車に乗り込んだ。
お母さんが車を発進させる。そして車は、隣町へ繋がる高架橋を走り始めた。
高架橋の下には、灰色の砂に塗れて荒んだ下界の町が見える。
お姉ちゃん。どうか無事で――。
そう祈りながら下界を眺めていると、その景色の一部に、夕陽で赤く染まった黒い花の群れを見つけた。下界で見た人形の目に咲いていた、あの黒煙色の花だ。
それは灰色の砂漠に突然現れた、黒い魔物のようでもあった。
わたしがその花から目を離せないでいると、それに気づいたお母さんがルームミラー越しに見て言った。
「まさか本当にこの辺りで見る事になるとはね……あの花が今の混乱の元凶だよ。あの下界の花がね」
お母さんは目を細め、忌まわしい物を見るような目つきでそう言った。
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