小説 平穏の陰 第四部(2)
それ以降、僕は殺意を秘めて生きる事になる。
それはまるで、いざとなれば他者を殺せる凶器を、いや狂気を?手に入れた気分だった。
そんな僕とは反対に、先生はとても穏やかで優しい人だった。
僕はリハビリを受けながら、先生から色んな話を聞いた。どうやら話好きのようだ。
外科医というのは平時は暇らしい。その方が平和で良いのだとか。
実はこの村は、山に棲む動物と共生しているため、一家に一丁は猟銃か護身用の拳銃をを持っているらしく、揉め事が起きると稀にそれが人間に向くこともあるのだそうだ。先生は言う。
「この村は時代に取り残されている。古い言い伝えを信じて科学を信じず、気に入らない人間に対してはその命を奪おうとする。まるで中世のように野蛮な村だよ。だから自衛しなければならない。警察も無いからね」
「そんな村で開業医ですか……」
僕は、腑に落ちない気持ちで疑問を口に出すと、先生は穏やかな目をして語る。
「僕は純粋に、一人でも多くの命を救いたいんだ。そしてできるならば、この時代遅れな村に、現代の価値観を広めたい。僕は人間が好きなんだよ。たとえそれがどんな人間であれ、ね」
人の命を救う医者らしく、志の高い人だと思った。と同時に、先生の崇高な考えに感化されすぎないようにしなければならないとも思った。自分の決意が鈍ってしまうといけないから。
近くには非常勤の看護師も住んでいるらしいのだが、患者が少ない時は、看護師がやるような仕事も先生がやるのだそうだ。今は患者は僕一人だから、先生が僕の世話をしてくれている。
先生は、訊けば何でも答えてくれた。そのおかげで、僕は知識を蓄えていった。人体の仕組みや、急所なども含めて。
それを存分に利用し、或る時、僕は訊いた。
「この村では自衛しなければならないのなら、先生も銃をお持ちなのですか」
僕は歩行訓練を受けながら、隣で支えてくれている先生の顔を覗き込む。先生はやや困ったような目をして「持っている」と静かに答えた。
人の命を救う医者が、人を殺す銃を持っているという矛盾に、僕は思いがけず興奮した。
「先生に人が撃てるのですか?」
更に先生を困らせている自覚はあった。でも興味の方が勝った。仮に僕がどれだけ困った子だとしても、先生が僕を嫌うことはない。何故なら、村では差別されるような命を救うくらいの出来た人だから。僕は憎まれ口を叩きたくなるくらいには、先生の事を慕っていた。
「僕が撃つのは相手の戦意を挫くためだ。急所を外して撃ち、その後、責任を持って治療する」
先生は真剣に答えた。なるほど、その正直さが僕は好きだった。もう少し意地の悪い質問をしてみたい。
「僕はまだ身体が思うように動かないのですが、もし……僕が此処に匿われている事が村に知れて、村の人に襲われたなら、先生は僕を護ってくださるのですか?そんな非常時でも、先生は急所を外して撃つことができるのですか?」
さぁ、どう答えるだろう。その時は村の人でも殺すだろうか。それとも僕を見捨てるだろうか。僕は、いくら先生でも僕の事など護り切れないと踏んでいる。だから僕も、自衛ができるように銃が欲しい、というのが本音だ。銃があれば、父さんを殺すのが楽になる――
僕のそんな邪悪な考えなど知る筈もなく、先生は少し考えて、
「勿論、最善は尽くすけれど、動けない君を護るのは容易ではない。その時は最早、殺るか殺られるかの世界だ。だけど僕は医者だから、人の命を奪いたくはないし、最後まで命を救おうとするだろう」
先生の目は昏かった。命の重さを知っている人の目だと思った。だけど次の瞬間には元の柔らかな表情に戻り、僕の頭に手を乗せて、
「だから君は、一日でも早く万全の状態に回復するよう尽力してほしいな。暴力には、逃げるか、それを上回る暴力で撃退するかの二択しかない。君は今、どちらもできないわけなんだから」
と優しくそう言う。僕は何故だか、心が少し漂白されたような気持ちになっていた。
「つまり、リハビリを頑張りなさい、ということですね」
そういうことだ、と先生は屈託のない笑顔でにっこりと笑った。先生に意地の悪い質問をした自分を反省し、しばしの間、先生から銃の話を訊き出すのはやめることにした。
こうして日中はリハビリに勤しむこととなったが、夜になるといつも、どうやって銃を手に入れるか……そればかりを考える日々が続いた。
一家に一丁はあるという話だから、何処かから盗めないだろうか。窓から村の様子を見た限りでは、昔ながらの木造の家が多く、セキュリティが甘そうに見える。しかし盗むとしても、いつやるか……日中は先生の目があるから抜け出すのは難しい。だけど夜に出るにはこの村を知らなさすぎる。それに上手く盗めたとしても、長い間手元に置いておくのはリスクを伴うから、できればこの村を去る目途がついた頃にやるのがいい。その為には緻密な計画が必要だな……などと考えていると頭が冴えて眠れなくなり、気がつくと夜明けが近づいてきていた。
空が白んできた中、ふと窓から外を見ると、こんな早朝に山へ向かう一人の男を見かけた。わりと体格のいい中年の男だ。そして僕は目を疑った。自分の妄想ではないかと思ったほどだ。その男はなんと、腰の右側にホルスターを下げている。見える位置に拳銃を装備していたのだ。
へぇ、この村にはあんな風に堂々と見せつける奴もいるのか。見せつけることが抑止力になるのかは知らないが、僕にとっては好都合だ。
そう思うと僕は、いつの間にか口の端を歪めて笑っていた。
だいぶ身体が思い通りに動かせるようになってきた或る日、僕は、先生の居る診察室へ行き、申し出た。
「先生には大変お世話になりました。ですが僕はお支払いできるお金を持っていません。なので、代わりと言っては何ですが……いえ、代わりにもならないことは重々承知しているのですが、今日から僕に食事を作らせてください。料理はできるんです」
先生は椅子に座って本を読んでいるところだったが、キョトンとした顔で僕を見た。何か変だったかな、と不安になりかけた頃に先生は口を開く。
「いや、君が料金の事を気にかけているとは思わなかった。まぁ今回の件は……ボランティアと言いたくはないけれど、放っておけなかったというのもあるから……出世払いということにしようか。食事を作ってくれるなら、その分、差し引いておくけれど」
「では、今日から退院までの間、僕が食事を作ります。残りは出世払いとさせてください」
先生はしばし沈黙した後、静かに本を閉じ、患者用の椅子を指して僕に座るよう促した。僕は素直にそれに応じる。
「退院した後、行く当てはあるのか?」
先生は僕の目を覗き込むようにして、真剣な眼差しで訊く。それは何だか、僕の発言の真偽を見極めようとしているようにも見えて、若干の後ろめたさを感じた。
「家に帰ります」
僕はごく当たり前の回答をしたつもりだった。だけど先生の表情は変わらない。少し間をおいて先生は言う。
「君の意識が戻った時、ご家族に連絡を取ろうと思って連絡先を尋ねたのだけれど、その時に何と言ったか憶えていないのか」
全く憶えていなかった。もしかして無意識に、父さんへの憎悪の言葉を発してしまっていただろうか。そう思うと冷や汗が流れた。
「君は『自分には家族はいない』と言い張ったんだぞ。何度聞いてもそう言うから、周辺の町の警察に問い合わせてもみたが、捜索願も出されていないという回答だった。君はもしかして、家族から傷つけられたんじゃないのか」
「やめてください」
僕は思わず話を遮り、先生から顔を背けた。逃げ出したい衝動に駆られる。頭に過剰に血が巡り、頭痛と眩暈がした。気を失いそうになるのを何とか踏み留まる。第三者から指摘されるというのはこんなにも堪えるものなのか、とその時初めて思った。手に全身に、ぐっしょりと汗をかいていた。
「やめてください、先生……。命を助けてくださった先生には本当に感謝しています。だけど……お話しできない事もあります」
そんな格好をつけて言ったところで、態度を見れば明らかなのに。だけどそう言うことしかできないぐらいに僕は動揺していた。
僕は間違いなく父さんを憎んでいる。なのに、先生が父さんに制裁を下そうとする事は許せなかった。
先生は父さんに関わってほしくない。これ以上、僕たちに踏み込んでほしくない。
そんな願いを込めて、僕は、強い眼差しで先生を見た。汗で湿った前髪が目にかかる。
先生はやはり、何かを見極めるようにしばらく僕の目を見つめた後、ふっと目を逸らして「わかった」と小さく呟いた。口ではそう言っているが、納得はしていない仕草だと思った。
まずい態度をとってしまった。完全に不意打ちだった。今後、先生は、僕を注意深く観察するだろう。もしかすると保護施設へ送ろうとするかもしれない。その前に此処を抜け出さなければ――
僕は、円満な退院ができない事を覚悟した。
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