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小説 平穏の陰 エピローグ

以上が僕の経験と感情の記録。
多分、誰も経験したことのない出来事と、誰も共感することのない感情。
それをこの場に綴った。
多分、誰も見ることのない、この場に。

僕は今、父さんのPCからこれを書いている。
母さんは僕をあんなに嫌悪していながら、正しいパスワードを教えてくれたのだ。とても感謝している。

母さんが造ってくれた左眼の義眼は、今は劣化して役に立たなくなってしまったから取り出し、代わりにきちんと医者にかかって造ってもらった物を入れている。
これで僕の中に、母さんの痕跡は無くなった。元々血も受け継いでいなかったし、まったくの赤の他人に戻った。
だけど父さんの痕跡は、父さんがつけた全身を這うこの傷痕は、一生消えることはないだろう。
それは時々僕を苛み、時々憎悪を呼び覚ます。愛しくも憎らしいこの傷痕を抉りたくなる衝動を理性で抑え、何とか僕は生きている。

彼女は――この部屋の作業机に横たわっていた人形は――時間はかかったけれども、ちゃんと思考も性格も持たない、ただの人形に戻すことができた。本来あるべき姿に。本当によかったと思っている。
だけど、それができたのはこの個体だけだ。手元にあったからこそ、父さんが埋め込んだプログラムをきれいさっぱり消去することができたのだ。

父さんの造ったプログラムを埋め込まれた人形は、100体を超えていた。老若男女、様々な容姿の人形が、この町をはじめ、隣の街、田舎の村、大都市近郊など、様々な場所に散らばっている。
その人形たちは無線でネットワークに繋がっていて、このPCから位置情報や視覚、聴覚にまでアクセスすることができた。人形の瞳はカメラになっているし、耳の奥にはマイクが入っているのだ。必要とあらば複数体の人形の視覚映像を、このモニター群に映す事ができる。
高等学校で出会った大友 帆波おおとも ほなみと名乗った個体が、僕に話をする前にこめかみのあたりを押さえ、その後、瞳の色が変わった事を記憶しているが、そこがカメラの電源ボタンになっていた。彼女は自分が人形であると知っていたからこそ、自分でカメラを切ることができ、監視者に聞かれてはマズい話を僕にする事ができたのだ。
僕が魅かれた漆黒の瞳は、残念ながらカメラのレンズだったわけだ。僕の部屋に置いていた幼い女の子の人形の頭部を解体して確認もした。ただ、この子にはまだ、無線通信は実装されていなかった。試作段階だったのかもしれない。
父さんはこのカメラ越しに、僕の歪んだ嗜好を知ってしまったのだ。それを最期まで僕に言わなかったのは、僕を心底、憐れんでいたのか、はたまた、僕を完全に貶めるための切り札として温存していたのか……もしくは優しさか?……いや、違うな。気持ち悪い。
この子は、僕が窓ガラスを割ってこの家に侵入した際にガラスの破片まみれになってしまったから、もう愛せなくなってしまったんだ。その時の僕の頭の中には父さんへの殺意しかなかったから、気づいてあげられなかった。可哀想な事をしたと思っている。

できることならすべての人形を生贄の役割から解放したかったのだが、ネットワーク経由ではプログラムを消去できない仕様になっていた。
考えてみれば当然と言えるかもしれない。普通の人は、人間と人形の区別がつかないわけだから、何かの拍子に突然、目の前の人間と思っていたものが何の反応も示さなくなったら、パニックになるだろう。
間違ってもそんな事態には陥らないように設計されていた。
だから僕は、プログラムの消去は諦め、代わりに、酷い目に遭いそうになった時には自ら逃げる事を選択できるように、プログラムを書き換えようと思った。

プログラムの解析には時間がかかった。何せ僕は、ITスキルが全く無かったからだ。今でこそある程度のIT用語が使えるが、このPCに残された大量のファイル群を眺めながら、独学で勉強したのだ。幸い――と言っていいのかはわからないが、家に独りきりとなり、とても学校に通おうという精神状態ではなかったから、時間はたっぷりあった。
半年はかかっただろうか。大量のファイル群の中から、人形の性格が定義されているファイル群を見つけ出し、そのソースコードが読めるようになるまでに。ようやく辿り着いた最深部のファイルには、以下の禁止事項が記述されていた。

Definition ProhibitedList{
 Emotion.Hatred(others) // 他者を憎悪してはならない
 Thinking.Blame(others) // 他者を責めてはならない
 Action.Violence(others) // 他者に暴力を振るってはならない
 Action.Runaway(others) // 他者から逃げてはならない
 Action.Killing(own)   // 自身を殺してはならない
}

何だか父さんの頭の中を覗いているような気持ちになった。
父さんはこれらの禁止事項を設けることで、人形を生贄に仕立て上げることができると考えていたわけだ。
僕はその中からたった一つ、たった一行だけをコメントアウトした。

Definition ProhibitedList{
 Emotion.Hatred(others) // 他者を憎悪してはならない
 Thinking.Blame(others) // 他者を責めてはならない
 Action.Violence(others) // 他者に暴力を振るってはならない
 // Action.Runaway(others) // 他者から逃げてはならない
 Action.Killing(own)   // 自身を殺してはならない
}

逃げよう。
どうしても辛い状況に追い込まれてしまった時は、最終手段として逃げればいいじゃないか。
僕はその一行だけを変更した後、ネットワーク経由で更新プログラムを配信した。

そしてそれ以降、僕は毎日人形たちをモニタリングしていたわけだが、半月ほど経った頃、少し変化が見られ始めた。長距離を移動する個体が現れたのだ。
逃げている個体だ。僕は思わずほくそ笑んだ。
その個体の詳細を見ると、32歳設定の男性型で、列車の運転司令所勤務だった。
運転司令所というのは、列車の運転状況や機器の動作の監視が主な業務であり、事故等異常発生時は各駅や列車の運転士に指示を行うなどして、物資や乗客を安全かつ速やかに輸送するための根幹となる機関だそうだ。
こんな職業があることを、僕はこの個体の存在を知るまで知らなかった。
父さんが残した研究データによると、人形たちに埋め込んでいる自省する性格は勉学に向いていて、社会の中枢を担う仕事に就くことが多いという結果が出ている。そうして就職した彼はどんな境遇にあったのか、ログを見れば概ね理解できた。

彼は断れない性格だった。他者の頼み事を何でも聞いてしまう。
最初は些細な頼み事だった。しかしそれは徐々にエスカレートし、同僚から仕事を押し付けられるなど、利用され尽くしてしまう。
しかし彼は文句ひとつ言わなかった。そうなると、人間というのは残酷なものだ。何も言わない彼の事を、周囲の人間は見下し始めた。
やがてその組織に何かしらの重圧が加わっても、「あいつよりはマシ」という思考で耐えられるようになる。なまじ皆が耐えるためか、より労働環境は過酷になってしまう。父さんの価値観で言えば、人形一人を犠牲に強い組織ができて満足していたのかもしれないが、僕には恐ろしい負の巣窟が出来上がっているように見えた。
誰もが、誰かが音を上げるのを待っていた。誰もが本心では、この不健全な均衡が崩れることを望んでいた。
そして彼は離脱した。
彼の思考や感情はログには残っていなかった。もしかすると彼は、呆れるほどに他者の事を思っていて、自分が消えることでこの不健全な均衡の崩壊を招いてみせたのかもしれない。人形にはそういうところがある。藤堂先輩といい、どうしてそこまで健気なのか。
父さんが残した研究データによると、生贄を失った共同体は遅かれ早かれ崩壊するそうだ。
列車の運転司令所の崩壊——。何だか嫌な予感がしたから、僕はその後すぐに食料と飲料水と日用品を大量に買い込んだ。

バタフライエフェクト、と言えばいいだろうか。
それは殆どファンタジーだと思っていたけれど、その後に起こった事象はそれに近かった。
彼がその組織から離脱してから2ヶ月ほど経った頃、その鉄道会社で列車遅延が増え始めた。
その時は僕も、たまにはそういう事もあるかと思ったぐらいで、特に気に留めなかった。
しかしその後、列車の運行遅延は常態化し、ついに軽微な事故が起き始めた。人命に関わるような事故こそ発生しないものの、機器トラブルが増え、遅延、運休が増えていった。その頃には僕も、生贄を失った事による均衡の崩壊を疑い始めていた。となるとこれは氷山の一角であって、いつか重大な事故が起きる可能性も無くはないな、などと思っていた。
しばらくした或る日、近所の食品店が品薄になっている事に気がつく。食品店だけではない、日用品や衣料品も品薄となり、価格は上がった。物流にも影響が出始めたのだ。
たった一人の離脱がその共同体の均衡を崩し、歯車は狂い始め、ここまでの影響を与えるに至った。
にわかには信じがたいが、実際、事象が起きている。僕はまたほくそ笑んでしまった。ネガティヴな予想とはいえ、当たると少し嬉しい。食料を買い込んでおいてよかったと思った。
この後も僕の予想は当たるだろうか。
僕はこの後、少しずつ姿を消す人形が増え出し、勤勉な人形たちが携わっていた仕事――つまり、社会の根幹を支えるようなサービスが徐々に劣化し、あらゆる場所で大小様々な事故が起き始めると予想している。物資が減り、社会インフラが劣化してくると、人々は自分が生きる事のみに汲々とする。その結果、犯罪が増えるだろう。犯罪と一言で言ってもその内容は様々で、自身の生活の為に盗みを働く者から、精神的に追い詰められて激情する者、さらには、犯罪が身近になることによって安直に犯罪を犯してしまうという、閾値の低下してしまった愚かな者も出てきそうだ。元々悪さをしたかった奴らが便乗することも十分に考えられる。
警察も手が回らなくなってくると、自分の身は自分で守らねばならない。
幸い、僕にはこの家があるし、食料の備蓄もあるし、いざとなれば鉄の扉で封鎖できる地下室もあるし、村から盗んできた拳銃もある。
当面は何とかなるだろう。停電が頻発したり、水道水に赤茶色の水が混じったりしない事を祈る。

こうして僕は、この頑丈な地下室で、父さんのPCから世の中を観察している。
父さんが研究していた不健全な平穏など、一度崩壊してしまえばいい、と思いながら。

僕の傍らに座らせている彼女は、相変わらず動かず老いず、いつまでも虚ろな目で無感動に僕を見つめていた。

-- END --

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