小説 花の意志 第2話 a. 下界
わたしは、一人でお姉ちゃんを捜すことにした。
下界には誰も行きたがらない。という事は、下界で何かがあっても助けてくれる人は居ないという事だ。
翌朝、日が高く昇ってから、わたしは、ゆっくりと慎重に、下界への道を下りて行った。
普段、この道を通る人は居ない。だからだろう、道には鉄骨やパイプなどのガラクタが散乱していた。
深部へ行くに連れて徐々に灰や砂が多くなり、もう引き返そうかと思った時、砂煙の奥に小さな人影が見えた。
子供がひとりで座っている――。
辺りを警戒しながら少しずつ近づくが、全く動く気配はない。陶器のように艷やかな肌、端正な顔立ち。それはよく見ると、殆ど等身大の子供の人形だった。そして、その人形の左眼の眼球は零れ落ち、代わりに花が咲いている。
眼に咲いた花は中心部が赤く、花びらの先へいくにつれて黒く変化していた。
暗い赤。それは深紅というよりは、黒煙を連想させるような黒い赤だった。
――もしかしてこれが、人々が恐れている寄生花なのだろうか。
そう思った時、後頭部を小突く硬い感触と共に、若い男の声が聞こえた。
「動くな」
心臓が跳ね上がり、反射的に身体は硬直した。
すると、少しの沈黙の後、男は言った。
「言うことを聞くということは、寄生はされていないな。両手を挙げて、ゆっくりとこちらを向け」
言われた通り、恐る恐る両手を挙げ、ゆっくりと身体ごと振り返る。
そこには、わたしとそう歳の変わらない男が、片手銃をこちらに突きつけて立っていた。その後ろには、まだあどけなさの残る少女も見える。
男は大きなフードを被り、目が隠れる程に前髪は長く、表情は読み取れない。そんな怪しい男が銃口を自分に向けているのだから、生きた心地がしなかった。
男は口の端を歪め、気味の悪い笑みを浮かべて言った。
「君は運が良いねぇ。丁度、人手が欲しかったところなんだ。僕の下につく気はないかな?」
――この状況で、わたしに拒否権などあるはずがなかった。
男は慣れた手つきで人形に咲いた花を切り落とした後、わたしの背中を抉るように銃口を押しつけた。
そしてそのまま砂煙の奥へと歩かされ、広場に出た。
広場の中央には、枯れた噴水設備があった。
その根元に、ひとりの女性が倒れている。こちらに背を向け、お腹を抱えて横たわっていた。その後ろ姿がお姉ちゃんに似ていたから、わたしは思わず駆け寄った。
だけど、女性の姿を見て急に足が止まった。
その女性は両の瞼から血を流し、下腹部からも夥しい量の血液を流していた。しかしまだ息はある。
お姉ちゃんではなかったという残酷な安堵と、理解し難い状況に立ち尽くしていると、男はわたしの右手にそっとナイフを握らせ、囁いた。
「最初の仕事だ。そいつの息の根を止めろ」
信じられない言葉を聞き、わたしは男を睨みつけた。しかし男は狂人のような笑みを浮かべ、
「3つ数えるまでにできなければ、お前の両脚を切り落とし、此処に置いていく。脚はこの子に切り落としてもらう」
そう言って男は、後ろについていた少女を指差した。少女はゆっくりと重そうな刀を抜く。
男は諭すように静かに言った。
「そいつはもう死にかかっているんだ。自分の命とそいつの命、どちらが大事かはわかるだろう?」
男のカウントダウンが始まる。
わたしはナイフを強く握り、女性の傍に膝をついた。
だけど、これを振り下ろせばもう後戻りはできない。暴力に塗れ、罪を重ねて生きる奴らの仲間入りをする事になる。そんな世界に生きる価値はあるか――。
『今の世の中、生きる価値はあると思う?』
そう言ったお姉ちゃんの声が頭をよぎり、わたしはナイフを振り下ろすタイミングを逃した。
何も考えずに振り下ろせばよかったのに。取り敢えずそうするのが、生きるためにはベストの選択だったのに――。
少女が刀を振り下ろそうとした時、「待て」と男の声がかかった。
「その前にちょっとやりたいことがあるなぁ」
そう言ったかと思った直後、わたしは後頭部に強い衝撃を受けた。
一瞬視界が途切れ、次に見えた光景は、青空の下、わたしの上に馬乗りになり、首を絞める男の姿だった。
脊髄反射で男の腕を掴み、爪を立てて引き剥がそうとしたが、その肌も腕の力も固く、まるで歯が立たない。
首がミシミシと音を立て、思考が回らなくなり視界が暗くなった瞬間、水風船が割れたような飛沫が頬に当たった。と同時に、首を絞めていた手が少し和らぐ。
急に息ができるようになり肺が勝手に大きく空気を吸い込む。吸い込みすぎて咽せ返った。
すぐにこの場から逃れようとしたが、重く泥々とした生温かい物がわたしの半身に圧し掛かって、身動きが取れない。
必死の思いで目を見開くと、頭の片方が破裂し大量の血液を流した男が、わたしの上に倒れていた。見ただけで即死だとわかる。
あまりの気持ち悪さに声が出ず、全身の力が抜けそうになるのを必死で堪えた。遠くで、刀を持った少女が声もなく後ずさりをし、そのまま走り去るのが見えた。
近くに倒れていた女性はもう息をしておらず、石のように静かになっていた。
わたしは一人、此処に残された。
震える身体を奮い立たせて男の死体をようやく退かし、足元に残っていたナイフを手に、近くの廃屋の外壁にもたれた。
ひとまず生命の危機からは逃れた筈だけれど、相変わらず生きた心地はしない。
男は頭を銃で撃たれたようだった。しかし近くに人は居なかった。
誰が、何処から、何の目的で撃ったのか。わたしを助けてくれたと思っていいのか――いや、そんな都合の良い事があるだろうか。
わたしは、廃屋の隙間の死角に入り込み、ナイフを両手で握り締めて息を潜めていた――と言うより、怖くてその場から動けなかった。
どれくらい此処で慄えていたのだろう。
時間感覚が狂っていた。ただ、日はまだ傾いていない。
遠くから一人の足音が聞こえてくる。ブーツで砂を踏む軽い音。
忍び寄るでもなく、警戒するでもない、まるでゆったりと散歩をしているかのような足音。
わたしは息を潜め、その足音が過ぎ去る事を祈った。けれど、徐々に近づいてくるのがわかる。
そして、わたしを襲った男の近くで足を止めた後、少ししてから声が聞こえた。大人の女性の声だった。
「まだ近くに居る?助けに来たよ」
――誰?わたしに言っているの?
わたしが背にしているこの壁から覗けば、その人を見ることはできるだろう。だけど勿論、相手を見るという事は、相手からも見られるという事だ。助けに来た、というのは本当だろうか。
その声は続けて言った。
「こいつを撃ったのは私なんだ。その後、すぐに逃げるかなと思ったけど動けなさそうだったから、様子を見に来たんだけど……」
その話し方や声量は、まるでわたしがまだ此処に残っている事を知っているかのようだった。
「帰る場所は在るの?」
足音はわたしの方にゆっくりと近づいて来ていた。そこで初めて気がついた。大量の血を浴びたまま、この場所まで這ってきたのだった。血を引き摺った跡が、此処まで続いている。
「私は、帰る場所を失った子達を拾って一緒に暮らしているのだけど……あなたはどう?」
ついに彼女は、わたしが背にしていた壁の角から姿を現した。
全身黒ずくめ――。
それが彼女の第一印象だった。黒いロングコートに黒いブーツ、黒く長い髪を後ろで高く纏め上げている。
強そうな女の人だと思った。人を撃ち殺すくらいだから、実際、強いのだろう。
だけど、この人も暴力の世界の人だ。どこまで信じて良いのか――。
警戒しながら彼女を睨むと、彼女はにっこりと優しい笑みを浮かべてわたしの傍にしゃがみ、言った。
「私は、あなたのような子を救いたいの。シャワーと着替えぐらいは提供するよ?」
わたしは、
・彼女に助けてもらう事にした。
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・彼女の誘いを断り、帰路についた。
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