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小説 平穏の陰 第三部(2)

嫌な記憶が蘇ってしまった僕は、このまま教室に居ると無意識に暴言を吐きそうな気がしたので、しばらく何処かで独りになることにした。
授業はサボることにした。
そういえばこの学校の図書室——正確には図書館だったか――にはまだ行ったことがなかったことを思い出す。
図書館で2、3冊ほど本を借りて、中庭のベンチで読むことにしよう。それなら周りに人も居ないし、不意に何か言ってしまったとしても誰も気づかないだろう。
僕は学校の構内図を思い出しながら、図書館の方へと歩いていった。

図書館は、本棚も机も椅子も、暗めの色合いの木材で統一されていた。照明も暗く、シックな雰囲気と言えばいいだろうか。珈琲の美味しい喫茶店のようなお洒落な空間が奥の方まで続いている。
その雰囲気だけで心が落ち着き、本を借りるかどうかは後回しにして、しばらく館内を歩いた。皆、自分の世界に没頭しているため、やや足音に気を使いながらゆっくりと歩く。通路は広々としており、天井は2階まで吹き抜けになっていて開放感があった。所々には、背丈を超えるような観葉植物も配置されている。
僕は適当な本棚の角で曲がり、より奥の方を目指した。
どこにどのジャンルの本が置かれているのかを把握しながら歩いていると、不意に見覚えのある立ち姿が目に入る。
肩にかかるくらいの黒い髪。本棚を見上げる黒い瞳の横顔。その瞳は、あらゆる光を吸い込みそうな漆黒で――僕は呼吸を忘れて彼女に見入った。
見れば見るほど、その姿は藤堂先輩だったのだ。
どうして此処に。頭は混乱し、動悸が全身を駆け巡る。
彼女は亡くなった筈……僕が見ているのは幻なのか。
無意識に、僕は彼女に向かって歩き出していた。一歩ずつ、静かに。
彼女のパーソナルスペースに入っただろうか。彼女が僕に気づき、こちらに視線を向ける。
身長は今では僕の方が少し高く、彼女は意図せず上目遣いで僕を見る格好となった。
その瞳が僕にとってはどうしようもなく魅力的で、僕はあろうことか右手で彼女の前髪に触れ、左眼の瞼にそっと口づけてしまう。
何故、こんなことをしてしまったのか。わかる人がいたなら教えてほしい。

僕は昔にも似たようなことをしてしまったことがあった。
まだ初等学校にも通う前の話。
幼い僕は、母さんが造った少女の人形に異常に惹きつけられ、椅子に座ったその子の前に跪き、艷やかな髪を撫で、赤く染まる頬に触れ、愛らしい唇にそっと口づけてしまったことがある。
その時の僕は何を考えていたのか覚えていない。
思いがけず冷たく硬い感触に我に返り、羞恥と罪悪感を感じた僕は、自分の行動を自分で制御できなかったことに恐怖し、その後、母さんの作業室に近づかなくなった。
自分の中に潜む不健全な嗜好。
僕は長い間それに思い悩み、誰にも打ち明けられずに封をしてきたのだ。

僕はこの行為の代償として彼女の鉄拳を食らう覚悟をしたが、衝撃が来ることはなかった。そうだ、彼女は暴力を振るうような人ではなかった。自分を犠牲にしてまで他者に手を差し伸べた、哀しい人だったのだ。
遅れて、唇に残った感触が、冷たく硬いものであったことに気づく。
僕が違和感を覚えた瞬間、彼女は何事もなかったかのように発言した。
「君の悩みは解決した?」
第三者がこの場面を見ていたとしたら、彼女の発言は理解不能だっただろう。だけど僕にははっきりとわかった。彼女の哀しい目。それは3年前、図書室で最期の会話をした時の目と同じだった。そう、彼女はあの時の会話の続きをしている。
僕は、自分でも情けないと思うほどの弱々しい声しか出なかった。
「本当に……藤堂先輩なのですか」
彼女は少し目を丸くした後、目を伏せて頭痛を抑えるかのように、両のこめかみのあたりを指の腹で押さえた。
そして再び彼女が僕を見たとき、その瞳は鳶色に変化していた。
何が起きたのか、僕にはわからない。
彼女は人が変わったように、やや冷たい口調で言う。
「藤堂 凪は、私の前のモデルなの。彼女の性格には欠陥があったから、廃棄処分になった」
突然、何を言い出すのか。今度の発言は僕にも理解不能だった。
しかし、彼女に触れた時の冷たい感触と、モデル、欠陥、廃棄という言葉から構築される僕の推測は、彼女が人形であることを示している気がして、僕は戦慄した。
人間と見紛うほどの人形などあるわけがない、という否定。だけど彼女への異常な惹かれ方は人形のそれに似ている、と妙に腑に落ちる気持ち。いや、そもそも何故僕は人形に惹かれるのか、という苦悩―—。
様々な思いが交錯し、脂汗を滲ませる僕に、彼女は涼やかな声で言った。
「私の話を聞いてくれる?」
「……勿論です」
僕は何とか声を絞り出した。
3年前には聞くことができなかった彼女の話をここで断るわけがない。例えその口からどんな真実が語られようとも。
僕は、彼女の言葉の全てを受け止める覚悟をした。

僕たちは、館内の奥の、殆ど人が来ない座席へ移動した。
図書館の座席は一人で本を読むために作られているから、机の幅は広く、向かい合って座ると若干距離がある。だけどこの距離感が僕には丁度良かった。臆することなく、目を合わせていられる。
彼女は、大友 帆波おおとも ほなみと名乗った。
名前を聞くと何とか別人だと意識することができたが、それでも外見や声は藤堂先輩そのもので、僕の頭は混乱気味だった。しかし、やや感情表現の乏しい冷静な口調と、漆黒ではない鳶色の瞳は彼女のオリジナルだ。
彼女は視線を落とし、静かに話し始める。
「君は……藤堂のことを、気にかけてくれていたのね。彼女は今、ただのログとなって、私の奥深くに沈んでいる」
彼女は胸に手を当て、故人を偲ぶように語る。
僕は何も言えず、ただ静かに見守っていた。
「申し遅れてしまったけれど、私は……人形。私は……私たちは、人々の平穏を維持するために造られた」
静かに、だけどとても真剣に、僕の目を見つめて彼女はそう言う。彼女の整った顔は、図書館の柔らかな照明に照らされて、陶器のように艶やかに映った。
美しすぎるその顔立ちがまさしく人形で、非現実的な状況に僕は複雑な気持ちを抱いた。
普通の人ならここで疑念の言葉を吐くのかもしれない。だけど僕は彼女の言葉をそのまま受け止めた。彼女のような人形が、他にも人知れずに存在しているのだろうか。
「平穏を維持するためとはどういう……」
僕が訊くと、彼女は哀しい目をして答えてくれた。
「人々が平穏に暮らすためには、どうしても生贄が必要らしいの。私を造った研究者たちがそう言っていた。だけどその贄が生身の人間であっては可哀想だから、私たちのような人形が造られた。私たちの役割は、生きたまま贄になり続けること……」
彼女は、綺麗に整った表情のまま、一筋の涙を流した。

生贄。中世の時代によく出てくるこの言葉。科学的根拠の無い、大多数の人々の気休めのために無駄死にさせられる命、と僕は認識している。
彼女に生物学的な死は無いものの、生きたまま贄にされ続けるというのはどれほど惨い事か。
義憤に駆られる気持ちを鎮め、努めて冷静に訊いた。
「……貴女を造った研究者とは、一体誰なのですか」
実はこの質問をするのは、かなりの勇気が必要だった。
平穏と研究者という言葉が並ぶと、嫌でも思い浮かぶのは父さんの顔だ。
しかも彼女は人形だというから、身体を造ったのはもしかすると母さんかもしれない。
頭が脈打つような動悸を感じながら、ぞっとする思いで彼女の答えを待ったが、彼女は「研究者たちは両親に扮しているから、本当の名前はわからない」と言った。
名前がわからなくても容姿なり何なり追求する事はできた筈だが、この時は正直、自分の両親の名前が出なかった事に安堵してしまい、それ以上は訊かなかった。彼女の両親と自分の両親が同じ人物である筈がない、そう自分自身を納得させる。
彼女は虚ろな目で話を続けた。
「君は、今の両親が、本当の両親かどうかを疑ったことはある?」
そんなことは、今の今まで考えたことが無かった。いいえ、と正直に答える。
「私は気づいてしまった。恐らく、研究者たちが私の調整を誤ったの、藤堂の性格の欠陥を修正した時に。そのせいで私は、自分が人形だと気づいてしまったし、役割も明確にわかってしまった。それがとても苦しい」
彼女は少し感情的になり、饒舌になっている気がした。
「藤堂は自殺することができたけれど、私はその欠陥は修正されている。この苦しみが永遠に続くのかと思うと――」
その後は言葉が続かなかった。

彼女の気持ちがわかるとは言わない。安易にわかるとは言えない。だけど何とかその絶望から、彼女を救い出したいと思った。藤堂先輩を救うことはできなかったのだから、せめて彼女を……。
「何か……僕にできることはありませんか」
本当はもう少し気の利いた言葉を言いたかった。
だけど僕に何ができるのか、できることはあるのか、想像がつかない。それでも、例え気休めであっても、そう言う事ぐらいしかこの時の僕には思いつかなかった。

彼女は、たっぷりと間をおいて、はっきりとした意志を持って、僕に言った。
「私を、壊してほしい」
その鳶色の瞳で真っ直ぐに僕を見て言うものだから、胸を打たれたように心臓が大きく音を立てた。
その言葉は何故だかとても甘美な誘いにも聞こえて、僕は、いつの間にか棲みついてしまった暴力的な自分を自覚する。
貴女をこの手で壊していいのなら。そう思うと手が震え、そんな自分に血の気が引いた。以前の僕なら絶対にそんな事は思わなかった筈なのに。
僕の心はどこか壊れてしまったのだろうか……そんなこと考えている間に、この沈黙の時間がどのくらい経ったのかわからなくなっていた。

彼女を壊す妄想をした自分を殺し、罪悪感の残る目で再び彼女を見ると、彼女はぼんやりと宙に舞う何かを目で追っていた。
視線の先にはモンシロチョウが一匹、ひらひらと舞っている。それはしばらく舞った後、傍らの本棚にとまり、羽をゆっくりと開閉させた。
理由はわからないけれど、そのモンシロチョウの仕草を見て、僕たちはお互いに穏やかな気持ちを取り戻した気がする。
彼女は「変なことを言ってごめん」と詫びた。そして「話を聞いてくれてありがとう」とも。
彼女はさらりと僕を置いて立ち去ろうとしたから、僕は、彼女の腕を掴んで止める。少し力が入りすぎていたかもしれない。彼女は驚いた表情で僕を見た。
「決して一人で抱え込もうとしないでください」
藤堂先輩のようになってほしくはないから。誰にも知られずに、一人で消えてほしくはないから。
彼女の視線はやや揺れていたけれど、
「わかった。ありがとう」
と言ってくれた。
僕は腕を放し、彼女は去った。

その日は真っすぐ家に帰る気にはなれず、帰り道にある公園のベンチで一人、考えていた。
世の中を平穏にする為の研究をしていると言った父さん。父さんに探りを入れたい。
だけど迂闊なことはできない。父さんは、自分の領域に容易には足を踏み入れてほしくない筈。今は父さんと2人で暮らしているのだから、関係が悪くなるのは御免だ。
どう切り出せばいいか。いや、切り出すというよりも自然な会話で引き出すのがいい。
では、どうすれば……。
ふと気づくと子供たちが4、5人、僕を遠巻きにちらちら見ながら、控えめに遊んでいた。
その保護者も同じような目で、時々こちらを見ている。
どうやら僕は、よほど怖い顔をしていたか、どこか不審だったらしい。
場違いだと察し、僕は帰路についた。

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