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小説 平穏の陰 第三部(3)

家に帰ると、ドアには鍵がかかっていた。
父さんが出掛けている――これは非常に珍しい事だった。
自分の鍵で家に入り、ダイニングテーブルに書置きがあるのを見つける。「急な仕事が入り出掛ける。帰宅は深夜か明朝になると思うから夕食は要らない」という内容だった。
何があったのだろう、と心配したが、すぐさまこれは絶好の機会かもしれないという思考に切り替わった。父さんからどう話を引き出すか全然決まっていなかったが、地下の研究室を覗くことができれば早いかもしれないと思ったのだ。
この家に住んでいながら一度も行ったことが無い地下室。
僕は、万が一、父さんが早く帰ってきてもすぐに気付けるよう、玄関の物音に耳を澄ましつつ、地下への階段を静かに下りていった。

数段下り、小さな踊り場で反対側に折れると、階段を下りきってすぐのところに、窓の無いのっぺりとした灰色のドアが見える。
鉄のドアだった。すぐ側にはカードリーダーのスロットがある。カードキーで解錠するタイプのドアらしい。一応、ドアノブに手をかけてみたが、回る気配は無かった。
強固なセキュリティだな、というのが率直な感想だった。いざという時でも物理的にドアを破壊するのは不可能だろう。カードリーダーを誤動作させるか、父さんからカードキーを奪うしかない……が、どちらも現実的ではない。
というわけで、研究室に入るのはかなり難易度が高い。何とか父さんが自ら僕を研究室に入れてくれるか、研究内容を話してくれるように持っていかなければならない。

そんな事を考えながら夕食を終え、寝支度を整えた。
自室に置いている幼い少女の人形を見ながら、今日の図書館での会話を思い出す。
自分を壊してくれと言ったあの人形——彼女に痛覚はあるだろうか……心が苦しくて涙を流したぐらいだから、身体的な痛みも感じるかもしれない。
彼女に息の根というものはあるだろうか……声や話し方に違和感は無かったから、空気を出し入れする機構は備わっているのかもしれない。
彼女を制御する重要な機関は、人間と同じように脳や心臓の位置にあるのだろうか……わざわざ小さな頭部に入れる必要は無い気がする。心臓の位置にこだわる必要も無さそうだから、もしかすると身体の中央に備わっているかもしれない。
さすがに食物は摂らないだろうから、食道から消化器官、排泄までの管は無いだろう。あったとしたら製造主の趣味の世界だ。
しかしそうなると、下腹部はだいぶ空きがあるような……下腹部……彼女に子宮はあるだろうか……彼女は一体、どこまで人間を模して造られているのだろう……。
僕はいつの間にか、彼女を解体する妄想に耽っていた。

翌朝、少し寝不足を自覚しながら何とかベッドから這い出し、朝食の準備に取り掛かったが、父さんはまだ帰っていなかった。
僕はいつも通りに支度をして家を出た。
父さんに入った急な仕事とは一体何か。しかも日を跨ぐほど長時間になるということは、よほどイレギュラーな事が起きたと考えていい。父さんの仕事にとってイレギュラーな事とは何だろうか……。
そんな事をぐるぐると考えながら漫然と授業をやり過ごし、帰路についた。

家に帰ると、今日は鍵はかかっていなかった。
平常に戻った気がして一息つき、中へ入ると、リビングのソファにだらりと座っている父さんを見つける。体重を背もたれに預け、寝ているように顔を天井に向けて、目元にはタオルを乗せている。
物音に気づいた父さんは、タオルを少し上げて横目で僕を見た。目の下が黒ずみ、酷く疲れた顔をしている。
僕は自然体を装い「お帰り、父さん」と声を掛けた。
「あぁ、ただいま。お前もお帰り」と、溜め息が交じったような声で、父さんは返事をした。
今日の夕食当番は父さんなのだけれど、
「今日は僕が夕食を作るよ」と言うと、
「あぁ、悪いけど頼む」
そう言って父さんは間もなく寝息を立てた。

夕食時、僕は冷蔵庫の食材で適当に作った五目炒飯をテーブルに並べ、父さんを起こした。父さんは食卓にはついたもののまだ寝足りないようで、目が据わっていた。食事をしながら、頃合いを見計らって声をかける。
「仕事、大変なの?」
ここまで態度に出てしまっているのだから、僕としても訊きやすい。この絶好の機会に父さんから何としても訊き出したい。生贄の人形を――あの可哀想な彼女たちを造っているのかどうかを。
いつもの父さんなら「まあな」とか何とか言うだけで、そのあと話が続かなくなるから次の手を用意していたのだけれど、その日は様子が違っていた。
父さんは僕を鋭い目つきで見据え、しばらくもぐもぐしながら沈黙した後、
「聞きたいか」
と言った。
え、と思わず声に出てしまう。こっちが訊いていてそれに答えようとしてくれたわけだから、こっちが戸惑うのは間違っている。が、まさか父さんが素直に答えてくれるとは思っていなかったから、不意打ちを食らった気分だった。僕も素直に「うん」と言い直す。
父さんは僕の目を見据えたまま、口の端を歪めて笑う。それは、僕を挑発して面白がる時の顔にも見えるし、興味深いものを見つけた時に笑う父さんの癖にも見えた。

「或る動物実験をしていた。長年にわたる実験だ。最初は興味本位で始めたんだが、生身の動物を使うのはどうしても手間暇がかかり過ぎてな、人工的に実験動物を造る事にしたんだ」
父さんは口ではそう言っているが、目では別の何かを訴えているような気がする。父さんは大体、話している事と真意が違う場合には、人を射るような目つきになる事を僕は知っていた。
「しかしその造った動物が、自分を実験台だと気づいてしまったんだ。研究仲間の設定ミスでな。そしてその動物が暴れ出した。取り敢えず身体は拘束したらしいんだが、至急、原因調査に協力してほしいと言われて行ってきたわけだ」
トラブルにもかかわらず、父さんは何故か愉しそうに話す。研究者の性か。
「……そんなに危険な動物を造ったの?」
僕はその動物の詳細を訊き出すべく質問する。父さんが動物と言っているのが、実は彼女のことだとしたら――だって話が符合するじゃないか。自分を人形だと気づいた彼女。研究仲間は彼女の両親だ。
「まぁ……暴れ出したというのは大袈裟だな。実際は、制御不能になり、自分勝手に行動し始めたといったところか」
「それで……その動物はどうしたの?」
僕はできる限り平静を装って訊く。だけど心拍数は上がっていた。ここで処分したなどと言われた暁にはどう反応すればいいか。だけど彼女の安否を訊かないわけにもいかない。いや、訊いたところで何もできないのだから、むしろ訊かない方がよかったか。
発言と思考が矛盾するぐらいに、僕の心は動揺していた。
「どうもしていない。俺は原因調査に協力してくれと言われただけだからな。その後はその研究仲間が決めるだろう」
そう言って父さんは目を逸らし、ふうっと軽く息を吐いた。

父さんが造ったのは生贄の人形だろう?そう訊くことができれば全てが終わる。
僕は、父さんが彼女を造ったことを知っている。だからその研究仲間に言って、彼女を助けてほしい。そう言うことができれば……だけど何故かどうしても、白黒つけるのを躊躇う自分が居る。
そんな逡巡をしている間に父さんは食事を終え、珍しく僕に話題を振った。
「お前はどうだ。学校は愉しいか」
父さんから学校のことを訊かれるなんて初めてのことだったから、思わずぽかんとしてしまった。
僕は、これまでに話した数少ないクラスメイトの顔を思い浮かべながら、
「……愉しくはないかな……。周りと合わないんだ」
と言うと、父さんは意外と優しく笑って言う。
「お前は繊細だからな。何事も考えすぎるところがあるだろう」
繊細——だろうか。初めて意識する。ぼんやりと自問自答しながら僕も食事を終える。
「所詮、周りの奴らはお前の3分の1程度の感受性しか持っていない。人の形はしているが中身は意外とスカスカだ。まさに人形のようにな」
人形。聞きたくなかった言葉だった。束の間、忘れることができていたのに。
僕は彼女の苦しみを思い出し、愚かにも反論してしまう。
「人形でも、複雑な感情を持つことはあるよ」
瞬間、父さんの眉が僅かに動いたのがわかった。
僕は明らかに失言した。
僕の真意を探る父さんの目。父さんに誤魔化しは通用しない。
そう思うと心の底にねじ伏せていた思いが怒涛の如く押し寄せてきて――僕は父さんに全てを話してしまった。
自らを人形だと言う女子と話した事、彼女は人形の役割を知り絶望していた事、僕はその彼女を救いたいと思っている事——。

父さんは黙って聞いていた。
僕が話し終わった後、父さんは静かに立ち上がり、白衣を纏ってキッチンへ行った。どうやら珈琲を淹れに行ったらしい。
僕は全部吐き出して少し心は軽くなったものの、自己嫌悪に陥った。自分が楽になっただけで、彼女が助かる保証など無いからだ。
父さんは珈琲カップを2つ持って戻ってきた。
「お前は昔から何故か人形が好きだったな」
思いのほか穏やかな声でそう言いながら、1つを僕の前に置き、席に着く。父さんの淹れる珈琲はよく香るが苦い。
「人形は予め記述されたプログラムに従って動いている。人工知能は搭載していない。人形に感情があると感じるというのならば」
父さんは珈琲カップを口へ運ぶ。
「それはやはり、お前の感受性がもたらした結果だ。自分が思い描いた妄想を人形に投影している。人の思いのままに動かせる、それが人形というやつだ」
彼女から感じた感情は、僕の妄想だと言うのか――いや、違う。彼女は涙を流した。そうだ、僕は彼女との会話の中身は父さんに話したが、一挙手一投足を話したわけではない。微細な表情までは話していない。つまり、父さんは直接見たわけではないのだから、人形に感情があるなどと信じられないのも無理はない。
僕は、頭を切り替えた。
人形の仕組みの話をしたという事は、父さんが人形を造ったという事を殆ど認めたと言ってもいい。今はそれだけで十分だ。一旦冷静になって、父さんに残酷な実験をやめさせる為の作戦を練ろうじゃないか。
僕は珈琲を飲み干し、
「わかったよ、父さん。話を聞いてくれてありがとう」
などと、心にも無いことを言ってカップをシンクへ持っていき、食器洗いを始める。
そういえば彼女も去り際に同じような事を言っていた気がする。彼女も本当は心にも無い礼を言っていたのだとしたら……本心はわかりようが無いのだから、彼女の感情は僕の妄想だと言った父さんは、或る意味正しいかもしれないな……。
そう思うと、何だか自分が可笑しくて笑えてきてしまった。

その日の夜は、疲れと昨日の寝不足とでとても眠く、ベッドに入るなりすぐに眠ってしまった気がする。正直、あまり記憶に残っていない。それだけ朦朧としていたのだ。
そして悪夢を見た。
真っ暗で狭い空間。
目を凝らして周囲の様子を探ろうにも、殆ど目が開かない。どんなに目に力を入れても、僅かな光しか入ってこない。
身体にも力が入らない。どうやら横たわっているらしい。乗り物に乗せられているような揺れがあって気持ちが悪いのだが、体勢を変えたくてもやはり力が入らない。
そして眠い。猛烈に。再び眠ってしまおうか。仮に眠れば死んでしまうとしても、眠ることを選んでしまいそうな眠さだ。
しかしその時ふと状況が見えてくる。
僕は車の後部座席に乗せられていた。車内は暗い。外は夜。月明かりに照らされて、僅かに外の景色も見える。山の中を走っているらしい。
運転しているのは、父さん?こんな夜に、一体何処へ、何の為に?
だけどやっぱり猛烈に眠い。うまく思考ができない。
ここで眠ったら死ぬとしても、もうどうでもいい気分になっていた。

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