小説 花の意志 第7話 a. 人間
わたしは、お姉ちゃんを追った。
お姉ちゃんがきっとそうしたように、わたしも窓枠を乗り越えて1階の出窓に足を乗せ、地面に下りる。
外は、灰色の景色が広がっていた。
建物も空も地面も灰色。灰色の砂煙が舞い上がり、もしかして此処は下界に近いのではないかと思った瞬間、既視感に襲われた。
背の高さを超えるような鉄板や鉄パイプこそ無いものの、夢の中で見たあの景色が重なる。と共に、その結末も瞬時に蘇り、全身に嫌な汗をかいた。
手が震える。
夢は夢でしかないのだから、と自分に言い聞かせて心を鎮めようとするも、焦る気持ちの方が強く、呼吸は次第に浅くなり、気づけば病院入口のゲートの方へ駆け出していた。
外来や救急の車両が通るのであろう幅広のゲートを抜けると、車道を挟んだ向かい側に、工場らしき建物が見えた。
わたしは息を呑んだ。夢では廃工場の中にお姉ちゃんが居たのだから。
あんな光景は見たくないと思いながらも、中を確かめに行かないわけにもいかない。
わたしは、怖気づきそうになる気持ちを何とか抑え込み、工場の敷地内へ入った。
敷地内にはプレハブの倉庫が幾つか建ち並び、人の気配は無かった。
静まり返った工場……だけど、地面に赤い雫が落ちているのが目に付いた。
灰色の地面の上で、それは妙に艶やかに見える。
近づいてよく見ると、それは血だった。それは点々と、或る倉庫の中へと続いている。
この時のわたしには、何故か動揺はなかった。
童話に出てくる、点々と続く足跡を追う少女のように、無心に血の跡を追っていた。
姿勢をやや低くして、足音を立てないように慎重に倉庫の中へ歩いていくと、微かに声が聞こえた。低い声だ。
庫内にうず高く積まれた廃材の山の向こうから、男の話し声が聞こえる。
そして、その話を遮るように、女の呻き声が間を埋めた。
規則正しい衣擦れの音。
廃材の山の陰からそっと覗くと、包帯が巻かれた女の右脚が見えた。
傷口が開いたようで、包帯には血が滲んでいる。
「お前の身体は一度、花に侵されているだろう?だからこの上界に居てはいけない。俺が解体して下界に捨ててやる」
そこには、お姉ちゃんに馬乗りになり、傷んだ右脚を乱暴に掴む男の姿があった。
いや、右脚を掴んでいるだけじゃない。その体格差でお姉ちゃんの身体を押さえつけ、おぞましい暴力を振るっている。
お姉ちゃんは殆ど患者衣しか着ていなかったせいで、容易に無防備な姿へと変えられていた。
わたしの怒りは瞬時に殺意へと昇華した。
廃材の中にあったバールを握り締め、男の背後へと忍び寄る。
そして、自分の行為に夢中で憐れなほどに無防備な男の後頭部に向かって、思い切り振り下ろした。
気持ちの悪い手応えがあったかもしれない。だけどその手応えを感じる間もなく、次の一撃を振り下ろしていた。
その後の記憶は定かではない。
気がつくと、頭が潰れて歪になった男の塊が、お姉ちゃんの足元で岩のように動かなくなっていた。
わたしは、自分のしたことに猛烈な吐き気を覚えながらも目を反らし、お姉ちゃんの傍に膝をついた。
返り血を浴びたようで、赤い雫が床にぽたぽたと落ちる。
お姉ちゃんの目は虚ろだった。静かに呼吸はしているけれども、まるで人形のように動かない。
「……お姉ちゃん……」
お姉ちゃんに声をかける。その声は震えていた。わたしは泣いていた。
お姉ちゃんは少し気力を取り戻したように、ゆっくりとわたしの方へ顔を向ける。すると、目に溜まっていたのであろう涙が、目尻から一気に零れ落ちた。
お姉ちゃんの涙は、わたしのよりも何十倍も重かった。
「サナ……私……もう……」
そこまで言って、お姉ちゃんは言葉を詰まらせた。
その先は言わないで。
わたしは我に返り、お姉ちゃんの右脚の包帯をきつく締め直して止血を始めた。
患者衣も整えて血や脂に塗れた肌を隠す。
大丈夫、病院は近い。すぐに戻ってまた診てもらえばいい。
気力を失ったお姉ちゃんを丁寧に抱き起し、しっかりときつく抱き締める。
わたしの鼓動が伝わるように。お姉ちゃんの鼓動を感じるように。
「大丈夫。大丈夫だから、お姉ちゃん。生きよう。わたしが……醜い人間を……殺してあげるから……」
最後の方は口に出していなかったかもしれない。仮に出していたとしても、既に気を失っていたお姉ちゃんには聞こえていないだろう。
だけど、そう決意した瞬間だった。
お姉ちゃんは潔癖すぎたの。
人間なんてどうせそんな大した生き物じゃない。勿論わたしも含めて、みんなみんな。
だけど人間に生まれてしまったのだから、この身体で生きるしかないの。
今日も明日も明後日も。一日一日、食べて、眠って。脅威からは逃げて、暴力には抗って。
意識がある限りは生に執着して。
身体が侵されても、潰されても、引き裂かれても、絶叫しながら、最期まで。
それが本当の意味での「生きる事に専念する」だよ、きっと。
そんな事を思いながら、わたしはお姉ちゃんを背負い、病院への道を戻っていった。
-- END --
最後までお読みくださり、誠にありがとうございました。
以下、物語のフローチャートです。