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小説 平穏の陰 第五部(1)

僕の罪を、誰か裁いてくれないだろうか。
母さんに言えば殺してくれるかな。

そんなことを呟いた気がして、はっと目を覚ました。
思わず目の下を触るが、涙は流れていなかった。よかった。少し弱気になっていたようだ。
窓が無いから夜が明けた感じがしないが、壁時計を見ると既に昼近くになっていた。

僕は立ち上がり、彼女の背中に挿し込まれているケーブルの接続元を確認した。それは彼女が寝ている作業机の下の大きな黒い筐体に繋がっていて、緑色のランプが明滅している。何か通信をしているように見えたから闇雲に触らない方が賢明だと判断した僕は、今度は入口に近い、父さんの作業机の方に回った。
机の上のキーボードに手を触れる。当たり障りのないキーを押してみると真っ暗だったモニター群が点いたが、どの画面もパスワード入力を求めるものばかりだった。
それはそうだよね、父さんの事だから当然だ。
これこそ闇雲に触らない方が賢明だと判断した僕は、他に何か彼女の状態がわかる手掛かりになる物は無いかと、本棚を眺めた。

父さんは、世の中の平穏の為には生贄が必要だと言った。
その生贄の役割を負わせるべく育てたのが僕であり、僕では上手くいかなかったから人工的に造ったのが彼女だ。
そして複製した彼女を世に放ち、経過を観察していた。この部屋から。
人間が必ず誰かを虐げてしまう生き物ならば、その誰かは生身の人間でない方がいい。それは一見、合理的に思える。
だけど、そうやって構築された平穏が気持ち悪いと僕は感じてしまう。そんな精神状態の人間たちに塗れて生きることが、とても不健全だと。……いや、それは後付けの理由かな。
結局僕は、可哀想な目に遭う彼女らを見たくないだけだ。

彼女を起動してはならない。性格をインストールしてはならない。感情も思考も持たない、ただの人形に戻さなければならない。
僕はそう思い、彼女の操作方法に関する資料を探した。

秘密主義な父さんのことだから、そう簡単にそれらしい資料など見つからないのだが、色々と漁っていると父さんには似つかわしくない、名刺サイズのお洒落な封筒がひとつ、机の引き出しに入っているのを見つけた。
真っ白な封筒で、中央には赤い蝋を溶かした封がされている。薔薇の印だ。開けた形跡はない。
父さんの持ち物は飾り気の無いシンプルなものが多かったから、手の込んだ封がされたこの封筒は、この部屋の中で異彩を放っていた。
此処に何か秘密があるように思え、慎重な手つきで封を開けると、中には手書きで電話番号が記された紙が入っていた。筆跡は母さんのものだ。母さんの今の連絡先だろうか。別れ際に手渡したのだろうか……しかし一体、どういう気持ちでこれを父さんに渡したのだろう。そして父さんは、どうして封を開けずに保管していたのだろう。
何かふたりにしかわからない間合いがあるように感じられて、僕は、嫉妬のような羨望のような奇妙な感情を抱いた。
そんな思いを巡らせながら、その小さな紙切れと封筒を持って、僕は一旦、ダイニングの方へ戻った。

ダイニングには勿論、父さんの死体が残っていた。
僕が計画していたのは父さんを殺すところまでで、その後の事は考えていなかった。
父さんの傍に膝をつき、穏やかな寝顔のような死相を見ながら改めて思う。
僕は父さんの事が好きだった。だから何でも話した。なのに父さんは僕を、実験用のラットぐらいにしか思っていなかったのかな……。
僕の中に確かに悲しい気持ちは存在するが、何故かその感情は僕の顔には表れず、まるで冷酷な仮面を被っているようで、僕は、仮面に支配されるまま無心で庭に穴を掘った。

そして夜になるのを待ち、父さんを埋めた。

顔の真上から土をかけるには忍びず、自分の気休めでしかないことはわかっていたが、少し横に向かせて土を乗せた。
埋め終わった直後、どういうわけか、ずっしりとした重い悲しみが両肩に圧し掛かった。その場に崩れ落ち、立ち上がることができないほどの脱力感に襲われる。
ようやく仮面が剥がれ落ちたということか。父さんが最期に言い放った酷い真実から心を護るために、無意識に自分に被らせた仮面が。
手に付いた土の匂いが、父さんが僕を捨てたあの日の記憶を呼び覚ました。

あの夜、僕は猛烈な眠気に襲われていた。きっと父さんが淹れた珈琲に睡眠薬でも入っていたに違いない、と僕は思っている。
父さんは僕を、身動きが取れないほど深い眠りにつかせていたのだから、本当は何だってできた筈だ。それこそ、首を切ることも、心臓を突くことも。
なのにどうしてそれをしなかったのか。
昨日だって、緻密に考えて行動する父さんらしからぬ、雑なやり方だった。銃を持つ相手に素手で立ち向かうなんて、愚かしいにもほどがある。
それほど、僕を舐めていたという事か。いや、父さんはそんな迂闊な人間ではない。
それらを突き詰めて考えると、どうも、父さんに躊躇いがあったように思えてならなかった。
どうして躊躇いがあったのか。

僕はダイニングに戻り、電話番号の書かれた紙を何気なく眺めながら、ぼんやりと考えを巡らせていた……いや、嘘だ。考えはうまく纏まらず、ただただぼんやりとしてしまう。
そうか、今更ながら気づいたが、僕は空腹だった。昨日から水しか飲んでいなかったことを思い出す。
僕はキッチンへ行き、冷蔵庫の中を探った。そこには父さんが食べるつもりであったであろう食材が保存されていた。当たり前だけれど、至る所に父さんの意志の痕跡がある。
しばらくの間それらの痕跡を見る度に、僕は罪悪感に苛まれるのだろうな、と思った。
だけどそれは、望むところだった。

次の日も僕は地下の研究室に入り、電話番号の書かれた紙を見つめながら、今後の事をぼんやりと考えていた。
本当はこの番号に電話をかけたいのだけれど、母さんに言う言葉が見つからない。
だって僕は、母さんが愛した人を殺したのだから。
母さんは今、父さんのことをどう思っているのだろうな……。
そんな事に思いを馳せながら、今日も本棚を調べ始める。
隙間なく本で埋め尽くされた、天井にまで届くほど高い棚。
僕は脚立を探し出し、左上から一冊ずつ順番に中身を見ていく事にした。そうすれば、時間はかかるが抜け漏れは無い。

そうやって調べていくと、両隣を辞書のように分厚いハードカバーの書籍に挟まれた、一冊の地味な冊子に辿り着いた。本棚の全容からすると、全くもって主張の無い冊子だ。
大きさは勉学用のノートぐらいで、色は灰色。表紙にも背表紙にも何も書かれていない。まるで装丁を失くしてしまった本のようだと思ったが、ページを開いてみて驚いた。
最初のページに、まだ目も開いていない赤ん坊の写真が2枚。とその下に、父さんの手書きの文字、いや数字が記されている。
それは僕の生年月日……と聞かされていた数字だった。という事は、この写真は僕?と思い、写真をまじまじと観察する。
1枚目は、布にくるまれているものの、その布も肌も何だか薄汚れている。
2枚目は、きれいに洗われて一糸纏わぬ姿の写真だ。
キャプションなどは無く、生年月日の後は、身長、体重、足のサイズ、頭囲、腹囲、手足の長さ、顔の長さ・幅、耳の長さ、目の長さ、口の幅、等々、ありとあらゆる場所が計測され、記録されていた。自分の記録でありながら、何だか気持ち悪いと思えるほどに。
それは毎日記録されており、目が開けば目の拡大写真があり、髪が生えればサンプルとして数本が押し花のように密封されて添付されていた。
しばらくその数字だけの記録が続いたが、或るところから父さんの所感が記録されるようになっていった。「立ち上がろうとしている」や「話そうとしている」等。それはだんだん、父さんの独り言のようなものに変わっていった。
「俺にはお前の言いたい事はわからない」
「お前に言葉を教えなければならない」
「まず名前を教えよう」
「お前は今日から知景ちかげだ」
それは僕が名前をもらった瞬間の記録だった。
物心がついてからの話だが、父さんの景仁かげひとという名前から一字もらったと知った時、何とも嬉しく誇らしかったのを思い出す。だから僕は自分の名前が好きだったのだ。
この頃には父さんも、僕を愛し始めてくれていたのではないか。そんな風に思えてしまう。

しかし言葉を覚え始めると、今度は生贄に仕立て上げるための躾を始める様子が記録されていた。
「優秀なサンドバッグに仕立て上げる為、以下の3つを叩き込む」
「・他者に対して憎悪を抱いてはならない」
「・決して反撃せず、必ず自省すること」
「・何があっても暴力は振るってはいけない」
この3つは何度も聞いた言葉だった。当時は意味などわかっていなかったから、音で記憶していた。成長して意味がわかった時、僕は両親を尊敬したのだけれど、真意がわかった今、これはとても残酷な教えだった。
恐らく人形たちにもこの教えがプログラムされている。
だから藤堂先輩は、あの悪魔のような片倉 暖里亜だりあから嫌がらせを受けた時も、自分の中に抱え込んで一人苦しんでいたのだ。

それらの記録は5歳になる直前まで続き、僕が発話した内容や興味を示した物なども併せて記録されていた。その中には「人形」の文字もあった。
僕が母さんの造った人形に興味を示すようになってから、母さんの心象が変わり、僕を可愛がり始めたと書かれていた。それまではどうやら疎ましく思っていたらしい。
もしかして僕は、人形を可愛がれば母さんからも愛される、という誤った学習をしてしまったのではないか、という考察が一瞬よぎったが、どうだろう。自分では判断がつかない。
そうしてその日は、その冊子を何度も読み返しているだけで一日が終わっていった。

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