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小説 平穏の陰 第五部(2)

数日間、本棚を漁る日々を続けていた頃、家に電話がかかってきた。発信元の電話番号は、あの小さな紙切れに書かれていた番号だった。
母さんなのか。僕はそう思い、特に深く考える事もなく受話器を取った。
「はい」
僕が出ると、電話の声の主はうふふと奇妙に笑いながら話し始める。
「久しぶりね……」
それだけ言って、声の主はなおも笑う。
声からして母さんだとは思うのだけれど、少し様子がおかしい。念のため確認をする。
「母さんなの?」
そう言うと声の主は、かつて料理を教えてくれた時のような、優しく穏やかな口調で言った。
「違う……実の母親でない事は貴方も知っているでしょう?」
瞬間、目を見開いたことが自分でもわかった。頭の血管が大きく脈動するのを感じる。何故、僕がその事実を知った事を、母さんが知っているのか。僕は、父さんを殺す直前の発言で知ったというのに。
「どうして……」
反射的にそう呟いてしまっていた。父さんと対峙した最期の場面が頭の中で再演される。
「どうして?」
声の主は優しく反復する。その声が僕を今の時間に引き戻した。声の主は諭すように続ける。
「景仁が、自分が死んだ後の事を考えていなかったと思う?」
頭の先から血の気が引き、代わりに冷や汗が噴き出るのを感じた。そうか、僕が浅はかだった。人はいつ死ぬかなんてわからない。突然の事故や病気などで死ぬ事を想定して予め準備をしておく事は、父さんなら十分に考えられた。父さんは自分が死んだ後の為に、一体何を仕込んでいたというのか。
「父さんは……なにを……」
「うふふ……彼の死を認めるのね。素直な子……」
そう言われてはっとする。母さんは、僕から言質を取りながら会話をしている。父さんの死を持ち出して、否定しなかった僕を咎めているのだ。
母さんの言葉に素直に応じてはいけない。
父さんと話す時にはあれこれと作戦を練ったというのに、母さんに対してはこれほどまでに無防備な自分が情けなかった。

僕は頭を切り替えた。受話器を持ったまま電話台を背にして床に座り、腰を落ち着ける。
「どうして電話してきたんだ」
父さんと離婚してから一度もかけてこなかったくせに、と頭の中で付け加える。すると僕の意識が変わったことに気づいたのか、母さんも冷静な口調で話し始めた。
「私の手元にね、彼からの封書が届いているの。中には彼のPCのパスワードと一緒に手紙が入っていた。その手紙には、一定時間PCにログインしなかった場合に、自分を死んだものとみなしてこの封書を送るよう仕込んでいた事が書かれていた」
そんな細工を施していたのか……さすが父さんだ、と声には出さずに苦笑する。母さんは声を低めて続ける。
「そして……貴方を殺し損ねた事、殺し切れなかったという思いも綴られていた」
僕ははっとした。父さんの思い――僕の前では微塵も見せなかった思い。あの灰色の冊子を読み終えた今では、その思いが少しわかった気がした。後悔はしていないつもりだが、罪の重みが両肩に圧し掛かる。手が血に塗れて見えた。
そんな僕をよそに母さんはやや感情を昂らせて言う。
「だから真偽を確かめるために電話したの。そしたら貴方が平然と出るものだからすぐに状況は判った。思わず笑ってしまったわ……」
そして母さんの笑いは嘲笑に変わった。
「憐れだと思った。だから私は入れ込み過ぎないように言ったのに。私との間に子を作らなかったくせに、貴方に目をかけすぎる事が許せなかった。だから別れたのよ」
急に胸を衝く言葉の数々。そんなふたりの間の話、聞きたくなかった。だけどそんな繊細微妙な事を口走ってしまうくらい、母さんは取り乱している。長年胸の内に押し留めていた憎悪を、その原因となった僕に一気にぶちまけている。そこには、僕に読み書きや料理を教えてくれた頃の優しさは、もう微塵も無かった。
僕は、罪に塗れた手を見つめながら、母さんの憎悪を甘んじて受けるべきだと思った。母さんに憎まれる事を、自分への罰としようと――。僕はまだ母さんを好きなのかもしれなかった。

僕は深く呼吸をし、懺悔の気持ちで静かに言った。
「ごめん……母さん。僕を憎んでくれていい。罵ってくれていい。だけど、貴女が何と言おうと、僕にとっては貴女が僕の母さんだった」
最後の言葉は、本当は父さんにも言いたかった言葉だ。母さんだけになってしまったけれども、伝えることができた事は、本当によかったと思う。

しばらくの沈黙の後、声の主は静かに泣いた。
それは、決して僕の言葉に心動かされたとかではない。
どれだけ怒りや憎しみをぶちまけても、起こった事は変えられない。どれだけ切望しても時間は戻らず、ただただ虚しいだけだと悟ったからだ。

お互いに深い沈黙の状態で居たのに、それでも電話を切らなかったのは、これが最後の縁だと思っていたからかもしれない。
「母さん。最後にひとつ、お願いがあるんだ」
声の主は何も言わなかった。先を促す沈黙だと解釈し、話を進める。
「父さんのPCのパスワードを教えてほしい」
声の主はまだ何も言わなかった。
「僕は、母さんが造った人形が好きだ。その人形たちが、父さんの研究で性格を与えられ、犠牲を強いられている。僕は、彼女らをただの人形に戻したいんだ」
そこまで言ってようやく、息を洩らしたような僅かな笑い声が聞こえた。
「大真面目に狂った事を言うのね。人を殺した人間が、人形の犠牲には耐えられないの?」
僕は、母さんの厭味を存分に噛み締めた後、正直な気持ちを答える。
「……そうなんだ。僕はどこかおかしいらしい。だけど、自分でも何故かわからないけれど、これが偽らざる僕の気持ちなんだ……」
自分が狂っていることは百も承知だが、素直な気持ちを吐き出したことで清々しさすら感じた。この後はもう、どうにでもなればいい。

声の主はしばらく沈黙した後、落ち着いた声音で言った。
「私の人形は愛でるために在る。決して人間の代わりになるものではない。だから、人形の取扱いという点では、景仁より貴方の方が正しいかもね」
母さんがそんな風に言ってくれるとは思っていなかったから、不意に胸がきゅっと縮こまるように苦しくなった。何だか泣いてしまいそうだ。
「私は、彼の人形の使い方には賛成していなかった。彼が実験していた方法では、表面上は平穏が保たれるかもしれないけれど、人々の人間性はきっと劣化する……そう結論付ける為に実験していたのかもしれないけれどね」
そう言った母さんは、ふうっとひとつ溜め息をついて僕に応えてくれた。
「パスワードを教えてあげる。パスワードは――」

僕は感情を整え、感謝の気持ちを丁寧に伝えた。そしていよいよ別れの言葉を告げる。
「さよなら、母さん。元気で……」
「ええ、さよなら」
多分もう二度と話すことは無いだろうなと思った。
相手が通話を切った後も、僕はなかなか受話器を手放せずにいた。

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