小説 平穏の陰 第三部(1)
高等学校ではクラスの人数は更に増え、男女合わせて40人となった。男子の方が2人多い。まぁそんなことはどうでもいいのだけれど、僕は相変わらず友達の作り方がよくわからないまま、この歳まできてしまった。
会話をするだけなら問題ないのだけれど、友達という関係性がしっくりこないというか。今思えば、中等学校の図書室で見たあの本を読んでおくべきだったかなと思う。タイトルは確か、人づきあいがしっくりこないあなたへ、だったか。
立花先輩とはあの後も何度か話す機会はあった。だけどお互いに暗い気分になるだけだったから、徐々に疎遠になってしまったのだけれど。
しかしこのクラスは皆、個性的で積極的で、眩しい人が多い。
髪や目の色はそれぞれ違うのだけれど、見た目の話だけではなく、皆それぞれに特技があった。
弓術を極めている子や、ボディビルダーのような肉体を持つ奴、鉄板加工が好きな子に、植物の生態にやたら詳しい奴、等々。
何故、友達を作れていない僕が皆のことを知っているのかというと、皆、異様なまでの積極性を見せるからだ。自分の特技をアピールしたくて仕方がない。だから僕は、会話に聞き耳を立てているだけで皆の特徴を知ることとなった。
僕はというと、これといった特技など無く、自分から話すことも殆ど無かったため、皆の眼中に入っていないことだろう。このクラスでは、受け身でいては存在しているものとして扱われない。
でも僕にとっては、この環境は悪くはなかった。色々な人の話を聞いているのが楽しく、退屈することが無かったからだ。
しかし入学して2ヶ月ほど経った頃だろうか。徐々にクラスの雰囲気は変わり始めた。
一通り、各人の特技を知り尽くした後、発展性が無くなって退屈し始めたのか、今度は欠点に目を向けるようになっていった。
完璧な人間などいないのだから、誰にだって欠点はあるだろう。ごく自然なことだ。
だけど行き過ぎた向上心だろうか。お互いに欠点を指摘し合い、それを改善しようとするうねりが見え始めてきた。それがより己を高めるのだと。
確かに一理ある。だけど僕からすれば、皆、既に素晴らしい長所を持っているのだから、そんなに躍起にならなくても……という思いだ。こんな考えだから僕は落ちこぼれているのだろうか。
クラスは三層に分かれていった。
第一層は、他者の欠点を指摘するが自分の欠点も克服できるタイプ。美しく言えば切磋琢磨とも言えるが、実際は叩き合ってその反骨心で無理して欠点を改善しようとしているようにも見える。でも実際、成し遂げる能力があるのだから、優れた人たちだ。しかし自分に厳しい分、他者にも厳しい。
第二層は、自分の欠点を重々承知しているが克服できないタイプ。第一層の奴らから言われ放題で言い返せない。根が真面目だから言われたことを真摯に受け止め、何とか克服しようと努力し続けている。
第三層は、人の話を聞かないタイプだ。耳の痛いことを言う他者との関係を断ち、自分の世界に没頭することにした人たち。この層は、今後どんな重大な欠点を抱えようとも誰も何も言ってくれなくなるだろう。蚊帳の外につまみ出された人たち……というか、この層はもしかすると僕一人かもしれない。
ともあれ、僕はそういった具合にクラスを分析していた。
僕のことを、消極的でやる気がないという人がいたが、僕がそいつにどう見えているかなどどうでもよかったので無視した。いや、このどうでもいいという感覚がやる気がないということか。だとすると、あながち奴の言っていることも間違いじゃないな、と思いながらも、特段、コミュニケーションを取ろうとは思わなかった。これも、消極的と言えるだろう。
自分の中だけでぐるぐると考えて結論付けてしまうところは、僕の欠点なのかもしれない。
こうして僕は蚊帳の外からクラスを見ていたわけだが、少しずつ切磋琢磨、もとい叩き合いの関係で潰されそうになっている人が見えてきた。
例えば或る一人の女子の話。
彼女は歌が得意だと言っていた。オペラ歌手のような厚みのある声から、聖歌隊のような透き通る声まで、自由自在に使いこなして表現する。
素晴らしい歌声と表現力の持ち主なのだが、彼女は太っていた。いや、その体格だからこそ出せる声なのかもしれないが、それを咎める奴がいたのだ。
自己管理ができていないと言われた彼女はそれを生真面目に受け止め、減量を試みたもののなかなかうまくいかず、結果、拒食と過食を繰り返していた。
彼女が健気であるがゆえに僕の目にはそれが痛々しく映り、ついに声をかけることにした。周りに気取られないように、やや声を潜めて。
「君の特技は歌だろう?体型はそこまで気にすることないんじゃないのか?」
彼女にとって僕は眼中に無い存在だったから、声をかけられたことに驚いたようだった。彼女はしばらく逡巡した後、答える。
「ありがとう……でもこれはわたしの問題だから。自分で何とかするしかないの」
「自力で何とかしようとして潰れてしまった人を僕は知っている。哀しい出来事だった。君もそうならないとも限らないから」
僕は真摯に訴えた。僕が見てきた景色を交えて。切々と。懇々と。
何とか彼女の心には届いたようだった。
「わかった。気をつけるね。ありがとう」
彼女は最後にそう言って笑った。
また或る時、或る一人の男子が気にかかった。
彼は着物を作るのが好きだと言っていた。実際、制服のないこの学校で、彼は洋服の上に羽織を着て登校してくることが多かった。きっと自作の羽織なのだろう。
黒や紺などの暗めの生地に、花や蝶、鯉などの柄が描かれたものが多く、それはとても繊細で艶やかで、思わず見とれるほどに美しかった。
だけど、彼のする話はよくわからないのだ。
抽象的で比喩が多く、まともに聞いているとこちらが混乱する。
それ故、彼の話は聞く価値がないとされ、皆、殆ど無視するようになっていった。
話好きだった彼は、今では自席で一人、溶けた蝋のように力を無くしていて、やはり見かねた僕は声をかけた。
「君の特技は着物を作ることだろう? 多少話が通じなくても、そこまで気にすることないんじゃないのか?」
「君は……飛魚——いや、何でもない」
「何だよ。言ってよ」
「ごめん、君の名前、覚えてなくて、勝手に飛魚君とあだ名をつけていた」
「いいよ、そんなこと。僕も昔、クラスメイトに勝手にあだ名をつけていたことがある……何だか君とはセンスが似ている気がするな」
「本当!?君にもこのクラスが海に見えるのか!」
と彼は感嘆の声を上げ、僕は自分の言ったことを少し後悔した。
この後、彼の話に適度に相槌を打ち、気を良くした彼に一つだけ言っておいた。
「そのセンスは君にしかないものだから大切にした方がいいよ。他者に伝わらなくても価値が無くなるわけじゃない。何より、君が作る羽織は美しい」
「……ありがとう。勇気をもらったよ。やっぱり君は浮いているね。飛魚的な意味で」
彼なりの褒め言葉であろうと僕は解釈した。
そう。皆が欠点と言っているのは、実はたいしたものではない。
欠点とはもっと……突然エアガンで人を撃つような衝動を持っている、とか、唯一わかり合えた友人を毒殺してしまう、とか……そういう致命的な欠陥のことだ。
いや、僕のこれまでの環境が異常だという気もするけれど、それにしても、このクラスの水準は高すぎる。皆が完璧を求め合う。もしかすると、完璧を求め合う環境になってしまっていること、これこそが致命的な欠陥かもしれない。
後日、僕にあだ名をつけていた彼は、僕に羽織を作ってきてくれた。
彼にしては珍しく、明るい空色の生地で、裾の方には胸びれと尾ひれが長い飛魚が、さり気なく描かれている。
主張しすぎない場所に、でも確かに存在し、一人だけ空を泳ぐ。
この羽織を受け取った瞬間が、僕にとって、これまでの人生の中で一番嬉しかった出来事かもしれない。
しかし、どうやらそのやり取りが目立ちすぎたようだ。
他者の欠点を指摘することに躍起になっている口うるさい奴らの目に留まってしまった。
或る日の休み時間、机に片肘をついてぼんやりと座っている僕の前の席に、話したことの無い女子が座る。ブロンドの長い髪をふわりと靡かせ、深緑色の瞳で僕を見た。
普段なら僕のことなど、全く意識に上ってこない筈の人間だ。もしくは無意識に見下しているか。
まぁ、見ている世界が違うのだろうと思っていた。お互いに一切、関わることは無いだろうと思っていたから、話しかけられた時は嬉しさすら感じた……というのは胸の内にしまっておこう。
白いブラウスに身を包み、外見からして潔癖そうに見える彼女は、自分に正義があると言わんばかりの態度で言う。
「君は本当に堕落しているね」
「堕落……君にはそう見えるのか」
価値観の全く違う者同士だ。ここで会話できることに僕は高揚した。彼女の眼中に入ることができたのだ。ここで彼女の価値観を打ち砕くことができれば、どれほど気持ちがいいだろう。
「そうよ。自分の欠点を直しもせず、他者にも直さなくていいと吹聴して……。君が直さないのはいいのよ。勝手にすればいい。でも他の子を巻き込まないでくれる?」
「君たちが言っている欠点とは、別に欠点でも何でもない。個性の範囲だ。必ずしも直す必要はない」
彼女は笑う。不自然に口の端を歪めて。その表情は、潔癖な彼女には似つかわしくないほど邪悪にも見えるし、高笑いしたいのを噛み殺しているような、複雑な笑みにも見えた。
「個性……そう、個性よね。このクラスは個性が強すぎる。個性が強すぎるとね、同じ言語を話しているのに理解し合えない人間が出てくるのよ。そこで必ず衝突が起きる」
彼女の話の風向きが変わったのを感じた。僕は黙って聞く。
「だからその前に、お互いを削り合い、丸くする必要があるの。気になる部分を早い段階から指摘し合い、修復する。そうすることでお互いの価値観が中和され、馴染んでいく」
彼女のその言葉には、僕の興味をくすぐるものがあった。彼女は人間関係を平穏にする方法について語っている。もしかすると、自分と同じように何か酷い状況を見て、そこから導き出した彼女なりの答えなのではないか、そう思えた。
しかしそこを追求すると本題から外れそうなので、今は掘り下げずに話を進める。
「わかるようなわからないような、だな。その削り合いで潰れる人についてはどう思っている」
「努力あるのみよ。頑張って克服してもらわないと仲間にはなれないから」
「誰もが努力すれば変われるわけじゃない。僕には巧妙な苛めに見える」
彼女は鼻で笑って「努力しない君が言っても、聞く価値がないわ」
「君の指摘が明後日の方向だからだよ。それこそ聞く価値がない」
何だか売り言葉に買い言葉のようになってきたので、軌道修正をすることにする。
意見は対立している筈なのに、実は根底には何か似通ったものが流れているような気もして、彼女の話をもう少し聞きたいと思っていた。
「君は……指摘されて直した欠点はあるのか」
「わたしはこの発音を直した。わたしの母国語はこの国の言語じゃない。発音が間抜けなせいで、よくからかわれたわ」
僕は正直に驚いた。彼女の話し言葉、発音に全く違和感を感じなかった。
「凄いな……素直に尊敬する。もはやそれは、欠点を直したというよりも特技だ」
彼女は今度は本当に嬉しそうに笑う。その笑顔はとても眩しく、彼女の容姿とも相まって、まるで天使のように見えた。
しかしそれも束の間、彼女は急に熱が冷めたように冷たい眼差しに変わり、人差し指で僕の右眼を指差して言う。
「わたしの特技は射撃よ。100メートルの距離からでも君の眼を撃ち抜くことができるわ」
彼女の指先が眼の前に――。その瞬間、心の底に沈めていた初等学校での出来事が蘇る。俺を見下ろす狐野郎のあの目。しばらく忘れていた筈なのに不意に蘇る厄介な感情。憎悪。
急激に苛立ちが増幅し、無意識に攻撃的な言葉を吐く。
「なんだ、失せろとでも言いたいのか」
「さぁ」
彼女はそう言って、さらりと自席へ戻っていった。
少しは有意義な会話をした気がするのに、手元に残ったのは混沌とした感情だった。
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