まどマギとスクールカースト
斎藤環さんの『承認をめぐる病』を読む。
昨今の社会、とりわけ若者たちの間に蔓延する「承認依存」と「コミュ力偏重」の病理について書かれた本である。著者はひきこもりの治療を専門とする精神科医だ。
本の中に、こんなことが書かれている。
“それでは、何が若者の「不幸」と「幸福」を分けているのか。
おそらくそれは「仲間」の存在である。
(中略)
ひきこもりの臨床経験からいいうることは、多くの若者(に限らないが)は、たとえ経済的には不遇であっても、コミュニケーションと承認さえあれば、そこそこ幸福になれてしまう、という事実である。
むしろ現代にあっては、幸福の条件としての「コミュニケーションと承認」の地位が高くなりすぎた。先に指摘した「コミュニケーション偏重主義」は、その原因でありまた帰結でもある。
(中略)
詳しく述べる余裕はないが、若者のコミュニケーションと「キャラ」とは、切っても切れない関係にある。
(中略)
「キャラ」とは、コミュニケーションの円滑化のために集団内で自動的に割り振られる仮想人格のことだ。「いじられキャラ」「おたくキャラ」「天然キャラ」など、必ずしも本人の自己認識とは一致しない場合もある。どんな「キャラ」と認識されるかで、その子の教室空間内での位置づけが決定するため、「キャラを演ずる」「キャラを変えない」という配慮が必要となる。
(中略)
「お前こうゆうキャラだろ」というメッセージを再帰的に確認し合うこと。それは情報量のきわめて乏しい「毛づくろい」にも似ているが、親密さを育み承認を交換する機会としては最も重要なコミュニケーションでもある。
この種のコミュニケーションの快適さになれてしまった若者たちは、自らに与えられた「キャラ」の同一性を大切にする。成長や成熟を含むあらゆる「変化」は、「キャラ」を破壊し仲間との関係にも支障をきたしかねないため忌避されるようになる。”
この部分を読んで私が連想したのは、例によって「魔法少女まどか☆マギカ」だった。
このアニメでは主要な登場人物たちが次々と死んでいくが、その「死因」が、「キャラ」からの逸脱であるように思えてならなかったからである。
山川賢一さんによる作品の評論『成熟という檻』を参考にしながら順番に説明していく。
1人目は巴マミである。
主人公の鹿目まどかとその友人の美樹さやかが魔法少女になろうとする以前から、魔法少女として魔女と戦ってきた「先輩」として登場する彼女には、「指導者」、「リーダー」としての「キャラ」が付与されている。その「キャラ」に従い、彼女は、まどかやさやかがなるべく公正に判断を下せるように、「魔法少女とはどういうものか」について十分なレクチャーをしようと努める。孤独な戦いを続けてきたため、内心では仲間が欲しいと思っているのだが、その気持ちを抑え、いっときの感情で「後輩たち」が過酷な運命に身を投じることのないよう、冷静な判断を促すのである。「頼りになる先輩」として。
しかし、まどかが魔法少女になるという決断をしたことで、その「キャラ」が崩れる。「頼りになる先輩」という「キャラ」がほころび、彼女は抑えていた内面を吐露してしまう。
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