小説『町に石に空に』(2299文字)
最近、夜の散歩でしばしば見かけるものがある。コンビニの前や、ベンチの裏側、郵便ポストの上におもむろにそれはある。それは結晶化した人間の残骸であるらしい。
どうしてそんなものがあるようになったのか、僕はこのところずっとそれについて考えている。
そのことについて誰かと話をしたかったが、誰にも話すことができなかったのでこうして書いているのだった。
「やあ」
僕は声をかける。
コンビニのゴミ箱の上にあった結晶体に向かってだ。
「なにをやってるんだい?」
もちろん返事はこない。しかし話しかけるだけで気持ちが軽くなるのだ。
僕は結晶体を拾い上げる。
ずしりと重い。結晶体とはいうもののそれは石のように硬くはなく、むしろ液体に近い手触りを持っている。透明感があって透き通っていてとても美しい。しかしよく見ると細かい傷だらけなのだ。そしてよく見るとそれはただの物質ではない。光を放つように淡く明滅している。まるで鼓動するように脈打っているようでもある。色は白っぽい銀のような色をしている。
僕は結晶体の表面に手を触れてみる。
結晶体は体温があるかのように暖かかった。僕が手で包み込むとそれはさらに熱を帯びるような気がする。しかし僕の指の間からこぼれ落ちてしまいそうな感じもする。僕はそっとその表面を撫でる。滑らかな表面だ。滑らかではあるが鉱物的な質感ではなくどちらかというと生物的なものを思わせる。僕はその表面に顔を寄せた。息を吹きかけるとその表面がかすかに震える。そしてその振動は僕の胸にまで伝わってくるようだ。
僕はこの結晶を持ち帰ることにした。散歩の度に出合った結晶を持って帰るから、僕の部屋は人間の残骸だらけになりつつあった。
「ただいま」
僕は一人暮らしのワンルームに帰宅すると、部屋の電気をつけた。
僕は玄関のすぐ脇にある台所のシンクに持ち帰った結晶を置いた。
僕は靴を脱いで部屋に上がる。そしてテレビの前に座った。
リモコンを手に取り電源を入れる。画面に明かりがつくと同時に、テレビのスピーカーからは音が流れ出す。
「さて本日のニュースです」ニュースキャスターの声が流れる。
画面にはどこかの街の風景が映し出されている。
僕はぼんやりとそれを見る。
しばらくするとニュースキャスターは今日のトピックスを語りだす。僕はそれをほとんど聞き流していた。
僕は思う。
いったいこれはなんだろう?なぜこんなものが突然現れたのだろうか? 僕にはわからない。
この石とも金属ともつかないような物質を人間の残骸だと言ったのは、確か生物学者だったはずだ。この物質の中には、人間の脳細胞に酷似した構造が無数に含まれているのだという話だった。
それが本当だとすれば確かにこれは人の残骸であると言えるかもしれない。
濃すぎる水溶液の中で結晶が析出するように、濃すぎる記憶があらゆる空間に偏在する中から析出したもの。そうだったら面白いなと思う。
もしそうだとしたなら、きっと僕らはその結晶によって記憶を保存できるということになる。記憶を保存するなんてことができるんだろうか? そんなことを思いながら僕は結晶を見つめる。
僕はこの結晶たちが好きだ。好きになってしまったのだ。
その時、テレビ画面の中が急に慌ただしくなった。ニュースキャスターが大声で何かを言っている。その映像が大きく揺れる。カメラが倒れかけているらしい。
そしてそのままテレビの映像が乱れた状態で固定された。どうやら故障してしまったみたいだ。まあ仕方ないだろう。僕はため息をつく。明日起きたら、新しいテレビを買いに行くか。
僕は大きく伸びをした。今日は少し疲れてしまった。風呂に入るのは明日でいいだろう。
ほのかに暖かな結晶を湯たんぽ代わりにして布団に入る。
手元のリモコンで部屋の電気を消すと、真っ暗な部屋の中で結晶たちが白く浮かび上がった。それらは淡い光を放っているように見える。
それは月夜の晩の海のように美しく輝いていた。僕はそれを眺めて目を閉じた。今夜はもう眠ることにする。夢も見ずにぐっすりと眠りたいと思ったからだ。しかしすぐに眠気が訪れたりはしなかった。頭の中にさまざまな考えが渦巻いている。その渦は次第に大きくなっていく。そしてそれはひとつの思考になるのだ。僕の胸の奥深くから沸き起こってくる感情だ。そしてそれは言葉となり声となって溢れ出そうとする。それはまるで嵐の夜のように僕の意識を飲み込んでいくのだ。
そして僕の意識は暗い海に放り出される。そこは海の底のような世界なのだ。深い海の底のような暗闇が広がっていてそこから様々なものが漂い出ているのだ。泡のような記憶。それは僕の頭の奥底に溜まった沈殿物。あるいは結晶化した誰かの記憶なのかもしれない。
僕は誰かの声を聞いた。それは懐かしい声だった。
「あなたはまだ覚えているの?」
僕は答える。忘れるものですかと僕は言った。しかし相手の姿を見ることはできない。なぜなら僕は海の藻屑だからだ。僕と相手の関係はとても曖昧なものだった。しかし僕は彼女を誰よりも愛していた。それは事実なのだ。
「私もあなたのことを覚えていますよ。あなたは——」
彼女は僕の手を握った。僕は彼女に手を引かれて深海から浮上する。そこには明るい水面があるはずだ。しかしそこに彼女の姿はなかった。あるのはただの闇だけだった。具体的には、孤独な男とおかしな結晶が所狭しと並んだ、土曜深夜のワンルームだ。
「おやすみ」
明日は日曜日。明日の夜も僕は歩くだろう。彼女が暮らしたこの町で、大気に溶け込んだ彼女を探して。
〈了〉