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小説『水性の言葉は青色』(3123文字)

 年の瀬だからと言って書きたいものがなくなるわけではない。あるいは、書かなければならないものも。
 私は今日も水槽の横に机を出して小説を書く。この季節は乾燥していてペン先が乾きやすいから、水に浸しながらだ。
 
 そんなわけで私は、水槽の中の「金魚」と戯れながら書く。水に浸したペンから、ブルーブラックのインクが流れ出る。「金魚」は待ってましたとばかりにそれに近づくと、美味しそうに呑み込んでいった。
「金魚」とは、「君の名前は何?」と私が訊ねた時の返事だ。もちろん私の問いがあまりに馬鹿馬鹿しいものだったせいで、「君は何を言っているんだ?」という顔をされた。
 それで「金魚」という返事が返ってきたというわけだ。つまりこれはある種の皮肉なのだと思う。

「私の名前が何だったか忘れちゃったんだけど、あなたには教えたくないのよ」

 そんな感じだろうか? まあ別にいいだろう。名前なんてどうせ大して意味はない。ただの記号なのだから。そう思うことにした。

「正月は仕事が休みだから執筆に集中できるぞ」などと浮かれていたら、気がついたらもう大晦日になっていた。信じられないほど時間が経つのが早い。
 まるで魔法みたいだ。私は魔法の国で暮らしているに違いない。いや、むしろここは異世界だ。

「だってここには魔法があるもの」

 「金魚」が言う。どうやら私の心を読んだらしい。確かにそうかもしれない。その証拠に私の部屋には水槽があって、そこでは色とりどりの熱帯魚たちが優雅に泳いでいる。
 赤青黄色紫ピンク橙オレンジ水色緑黒タンポポ色……そして「金魚」。
 魚たちを食わせていくために、私は仕事に行ってお金を稼いでくる必要がある。私のような人間がそれなりの収入を得られる仕事と言えば限られているけれど、それはまあ仕方がないことだ。私はこの仕事をしていることで救われている部分もあるのだし。
 電話が鳴る。仕事の呼び出しだ。さて出かけようか。今年最後の仕事の時間だ。来年もいい年になるといいなぁと思いつつ。
 
 さっきまで真っ暗だったはずの空はいつの間にか月が出ていて、まるで星くずみたいな光が地上に降り注いでいるように見えた。
 こんな夜なのに外は人が多いようで、ときどき酔っ払いたちの奇声が上がる以外は静まりかえっているということもない。でもまあいいかと思う。別に何か問題があるわけでもないし。少なくとも私にとってはそうだ。
 
 問題はそれぞれの内側にあるものだからね。
 
 私は事務所に着くと、マネージャーに軽く挨拶をして、タイプライターの前に座る。すぐにこうもり達が群がってきて原稿用紙を食べ始めた。それを横目で見ながらキーを打つ。
 『あけましておめでとうございます』と打ち込んだ文字は一瞬にして消え去り、かわりに見知らぬ言語で綴られた文章が現れた。私はそれに目をやることもなく「送信」ボタンを押した。これでまたひとつ世界ができたことになる。もういくつか作っておこう。正月休みの間にも在庫が切れないように。しばらくすると、今度は事務所の方から電話がかかってきた。「今年もよろしくお願いします」とかなんとか、いつも通りの仕事の話だ。私は適当に話を合わせて、最後にこう付け加えた。

「では良い一年をお過ごしください」

 電話を切ると同時にタイプライターがカタカタ音をたて始める。そしてまた知らない言語の文字が浮かんできた。それを見て、思わず笑みがこぼれてしまう。なんだかとても幸せな気分になったのだ。
 仕事は嫌いじゃない。小説を書くことは好きだし、こうもり達も可愛い。
 私は仕事が好きなのだ。これこそ本当の「好き」というものじゃないか?仕事がなければ何もできないし、小説を書き続けるためには仕事が必要だ。元をたどっていくと、全ては仕事に繋がっている気がした。
 
 そんな風にして、今年最後のシフトが終わった。「金魚」へのお土産を買おう。私は近くの商店街へと足を運んだ。魚屋さんを見つけて、そこで売っていた鯛焼きを買うことにする。頭から尻尾までまるごと食べられるので、一匹丸ごと食べても飽きないという優れものだ。「金魚」はこういう変わった食べ物が大好きなのだ。きっと喜んでくれることだろう。
 鯛焼きを買った帰り道、大晦日の町は普段よりもずっと賑わっているように見えた。すれ違う人たちの顔はとても幸せそうに見える。私はふと思った。みんなは一体何を楽しみにしているのだろう?何を祝って、何を楽しめばいいのだろう?そう考えたら急に怖くなった。自分が何者なのかわからなかったからだ。
 不安になって自分の両手を見つめてみると指先からどんどん透明になっていくのがわかった。
 
  そろそろ家に帰らないと、鯛焼きどころではなくなってしまうね。
 
「あなたは無理しすぎるところがあるのね」

 帰宅した私に向かって「金魚」が言った。すっかり透明になってしまった指先に気づいたのだろう。

「お土産を買ってきてあげたっていうのに」

 私が言うと、「金魚」は嬉しそうにはしゃいだ。

「嬉しい!私ね、あんこたっぷりでカリッとしたのが好きで、でも中身が熱いのは苦手だから、食べるのがちょっと大変なの」
「ああそう」
「だから気を使ってくれてありがとう」
「別にそういうわけじゃ……」
「私、あなたが思うほど弱くないよ」

「金魚」はそう言って、水槽の中を自由に泳ぎ回った。
「金魚」は私のことをよく知っている。確かにそのとおりだ。
 そろそろ体も戻ってきた。小説を書こうと思った。水槽の横に机を出して書き始めようとすると、水槽の中から「待ってました!」と言わんばかりの勢いで熱帯魚達が飛び出してきた。インクを少し与えると、みんな満足したのか、再び水槽に戻っていった。
 
「金魚」が言う。
 
「ねぇ、もっとたくさんの魚がいると素敵だと思わない?」
「うん」
「いろんな魚がいて、いろんな色がたくさんあるの」
「そうだね」
「いつか、あなたの国に連れて行ってね」
「いいとも」
「約束だよ」
「もちろん」
「……」
「……」
 
「金魚」の声が聞こえなくなった。
 私は小説を書く。
 水槽の中の熱帯魚たちは今日も元気に泳いでいる。

「来年はきっと行こう、きっと」

 私は呟いた。

「来年やろうはばかやろうって聞いた」
「だからインターネットは与えたくなかったんだ」
「私はばかでもいいっていいって言おうとしたのよ」
 
 いつの間にか点いていたテレビでは、紅白歌合戦が終わり、除夜の鐘の中継に切り替わっていた。

「今年もあとわずかですね」
「みなさまよいお年を」
「今年ももうすぐ終わる」
「金魚」が言う。
「どうしてこんなことになっちゃったのかな」

 私は答える。
 なぜなんだろうね。
 思うに、それはたぶん、神様が退屈しているからだと思う。
 神様というのは退屈なものらしい。
 
 神様の暇つぶしになるものが書けるといいけどね。
 
「そのうち、いつかはねえ」
 
「金魚」が言う。また心を読んだらしい。
 除夜の鐘の音が聞こえやしないかと、私たちは耳を澄ませた。けれど、聞こえるのは水槽の中で泳ぐ魚たちの立てる音ばかりだ。
 まあいいかと思う。こうして私たちの時間は過ぎていくのだし、それに、もしこの世界に神様がいたとしても、私たちのことを気にする余裕なんてないだろう。だから私も気にしないでペンを進めた。やがて水槽のガラス越しに、新年最初の朝日が射す。
 水槽の中には色とりどりの熱帯魚たちが泳いでいる。
 水に浸したペンからはブルーブラックのインクが流れ出て、魚の鱗のようにきらめいている。
 今年もいろんなことがばれずに過ごせるんじゃないかなという希望がほんのちょっとだけ沸いてきた気がした。

 今年もいい年になるといいね。

〈了〉

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