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小説『舐められるもの舐めるもの』(3375文字)
キャンディーハンターについて、皆さんはどれくらい知っているだろうか。高校の同窓会で、久しぶりに出会った彼女は、自分の職業を、
「ああうん、今はキャンディハンターをやってるよ」
と言った。
私は今年で三十になるけれど、その私でもキャンディーハンターをまともに見たことはない。
彼女は高校を卒業した後、東京の有名私大に進学したのだったか。
かたや、地元の国立に進んでモラトリアムを地元で消費して、流れのままに親父の会社の後継者候補に収まった私。
私には知らない世界を彼女は知っている。
東京にはそんな仕事があるんだ。
そんな田舎丸出しな言葉が口をつきかけて、命をかけて慌てて押しとどめた。
代わりに、
「おめでとう、キャンディーハンターって儲かるものなんだよね?」
などと口走ったものだから、彼女は笑ってこう言った。
「まあねえ、そこそこ稼いでますよ」
「へえ……」
そうですか。私よりも稼いでいますか。私よりも充実していますか。あなたの家から、東京タワーは見えますか。
私の家から見えるのは、田んぼと山だけですよ。
そう言いたい気持ちを抑えて、私は曖昧な笑みを浮かべて見せた。
彼女も曖昧に微笑んで見せる。
「休みが少ないんだっけ? その、キャンディーの仕事は」
「うーん、どうだろ。最近はあんまり休めてないかなぁ」
「そうなんだ……大変そうだねぇ」
「うん、大変なんだよ」
彼女が笑う。
「でもさ、この前なんか、もうほんっとすごい飴を見つけちゃったわけ! あれは絶対売れると思うんだ。普通の飴じゃなくて、その時の月の満ち欠けによって味がと色が変わっちゃうの。その日だけは、どんな病気だって治っちゃうって言われてる特別な飴!」
目を輝かせながら話す彼女に、私は相槌を打つことさえできなかった。
ただただ彼女の言葉を聞いていた。
「あとは放っておくと、あ、とは言っても高温多湿で砂糖がないといけないんだけど、そうすると勝手に繁殖する飴! これがすごい値段がつくの。いくらだと思う?」
「さあ……100万とか?」
「惜しい! 100万だとケタがちょっと足りないかなー。ていうか経費で赤字。地球人なら誰でも知ってるあの大企業、あ、名前は言っちゃいけない契約でね、その会社が研究用に買うんだって。研究して殺人ウィルスを……あっ言っちゃった!」
彼女がわざとらしく口に手を当てる。
オフレコでお願いね、と言って彼女は楽しそうに話し続ける。
私は相槌を打つことすらできなくなっていた。眺めているだけだ。
彼女が東京で人生を楽しんでいる間、私は田んぼと山を見て目覚めて、父親の会社で役員に挨拶して、夜になってテレビを見ながら酒を飲んで寝るというだけの日々だった。
私はいったい何をしているのだろう。なんのために生きているのだろう。そんな思いが頭の中を巡り続けていた。
高校時代の彼女は、私よりずっと目立たない、はっきり言って一段か二段か下のヒエラルキーにいたはずなのに。
あなたは輝いていい人間ではありませんよ。私が主役ですよ。早く身の程をわきまえてくださいね。
お前なんかどうせすぐ野垂れ死ぬ。絶対に。
「そういえば、今度一緒に仕事をする仲間と飲みに行く約束をしてるんだけど、一緒に行かない?」
「えっ、東京で?」
私は思わず聞き返した。
「仕事の打ち上げなんだけど、結構大きな案件なんだよね。だからちゃんとした打ち上げ会みたいなのもしたいと思ってたからさ。もちろん強制じゃないけど、みんなで盛り上がれればそれでいいなって思って」
「そっか、うん、行きたいな。最近東京行ってないもん」
「やったー!ありがと!」
彼女は嬉しそうに笑っていた。私はその笑顔を見ることができなかった。
「じゃあ約束。キャンディハンターは約束にうるさいよぉ?」
彼女はそう言って、オペラグローブを取った。その下の手を見て、私は愕然とした。透き通った青色とピンクのマーブル模様をした指と、それから手。腕の一部までが、美しく輝く飴になっているように見えた。
その指先を、彼女は私の口元に持ってきた。
「やくそく」
彼女の指先は、甘い味がした。
「これ、連絡先ね」
「うん……」
「今度、詳しい日程とか打ち合わせよう。それじゃ、また!」
「うん、また」
私は、彼女が去っていくのを見ていることしかできなかった。
ああ、ああ。
ああああ、なんて。ああ。こんなにも美しいんだろう。
私は、彼女の姿が視界から消えると同時に走り出した。そして家に帰るなり、スーツを脱ぎ捨て、部屋着に着替えると、そのままベッドに飛び込んだ。
枕を抱きしめ、足をバタつかせる。
「あははは」
笑い声が漏れた。
「あはははははははははははは」
笑わずにはいられなかった。
それからの一週間、私は有休を使って会社を休んだ。どうせ父親が引退したら私が経営するのが決まっているのだから、何も気にする必要などなかった。家族同然の役員たちがどう思おうと関係なかった。ほっとけよ。
私は渋谷のハチ公前で彼女と待ち合わせた。
「うっそ、めっちゃ気合い入ってない?」
私と待ち合わせるなり、彼女は口に手を当てて言った。
「そう? そんなことないよ」
「さっすが社長令嬢じゃん。気品あるわあ」
彼女は相変わらず美しかった。
しかし、それは外見だけの美しさではなかった。彼女の魂はもっと奥深くで輝きを放っていた。それが私にはわかる。
「あ、あれって」
人ごみの間を走って行く、透き通った青色とピンクの物体、あるいは生体。
「あれはキャンディ・マンだよ。ジンジャーブレッドマンに似た感じ。あっ、確かに地元にはまだいないもんね、知らないよねえ」
彼女は少し驚いた様子だったが、すぐに説明を始めた。
キャンディ・マンは、一見無害に見えるが、非常に危険な生物で、駆除できるのはキャンディハンターだけなのだそうだ。
「なんであんなにきれいなのかなぁ。あの色って自然界ではありえないよね?」
「うん……」
今や東京は私の知っている東京ではないのだと思った。いや、そもそも私が知っている東京なんて、テレビやネット越しに見ているものに過ぎないのだ。
本当の東京では、東京では、東京では。
東京では。
「でもね、この前捕まえたのは特別でね」
彼女がそう言った時、私は我に返った。
「特別なキャンディ・マン」
「うん。あのね」
彼女は、いつもとは違う種類の微笑みを浮かべてこう続けた。
「炎と同じ温度で燃えるの」
「えっ」
「だから、火をつけるの」
彼女はバッグからライターを取り出してみせた。その動作はとても自然で滑らかだった。まるで何年も使い込んでいるもののようだった。
「これでね」
彼女はもうひとつ、美しい輝きを放つ物体を取り出した。それはキャンディー・マンの死骸だった。死骸にライターで火を灯す。
一瞬にして、その身体は溶け落ちた。
彼女の顔に、その笑顔に、一点の曇りもなかった。
私はその瞬間に悟った。
彼女は、キャンディを舐める側の人間なのだと。
彼女の飴玉とは、人生そのもの。命そのもの。喜びであり幸福そのものだった。彼女はそれを喰らい、奪い、消費する側の人間だった。
「ねぇ」
彼女は甘えるような声で私を呼んだ。その声に私は従う。私の頭はべたべたに甘ったるくとろけて、彼女の思うがままになる。
彼女は私の顎を掴むと、顔をぐいと引き寄せた。
「舐めて」
言われるがままに、私は突き出された彼女の指を舐めた。その味は甘くて苦くてしょっぱかった。そして何よりも愛おしいと感じた。
「キャンディハンターって、甘さがわかんなくなっちゃうんだよね」
彼女は言った。私は反射的にうなずく。
「うん」
「だからさ、私に、あなたの飴をちょうだい」
「あげる」
「ありがと」
私は彼女に飴を渡した。
彼女はそれを噛み砕いて、美味しそうに味わって食べるのだろう。
「おいしそう」
彼女は笑った。
「とってもとっても、おいしくなったんだよね」
彼女は私の頬に触れながら、耳元で囁いた。
「じゃあ、行こっか。楽しい打ち上げになると思うよ?」
私たちは手をつないで、歩き始めた。
ハチ公が、109が、スクランブル交差点が、センター街が、代々木公園が、知らない街の景色が、すべてが遠ざかっていく。
私は振り返らなかった。ただひたすら、彼女のことだけを考えていた。
〈了〉