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小説『コーヒーによる破壊とその先』(2862文字)

「年齢は24歳。前は事務の仕事をしていました。夢はコーヒーをブレイクすることです」
「コーヒーをブレイクする? コーヒーを飲むということ?」
「いいえ。コーヒーをブレイクするというのは、ブレイク・スルーのことです」
「……なんですかそれは?」
「言葉の通りの意味ですよ。コーヒーを飲みながらブレイク・スルーすることに憧れています」
「ブレイク・スルーとは、どういう意味なのでしょうか?」
「ブレイク・スルーは、ブレイク・スルーですよ。コーヒーを飲んでいる時に、ふっと自分の殻が破れて、何か新しいものが見えてくる日をね、待っているんです」
「……つまりあなたは、コーヒーを飲まないとブレイク・スルーできないわけね」
「そうですね。コーヒーを飲んでいない時は、ただの人だと思ってください」
「なるほど。いつから来られる?」
 
 おかしな青年だと思った。
 けれど、最低限の受け答えはできるし、何より人手が足りなかったから、私は彼を採用することにした。
 うちの店は、駅から少し離れたところにある小さな喫茶店だった。マスターの趣味で集めているレコードを聞きながら珈琲を楽しむ客たちの姿を見るためにだけ存在しているような場所だ。もちろん常連さんもいたが、毎日通うほどの熱心なファンはほとんどいなかったように思う。
 マスターも来たり来なかったり。だから私がバイトリーダーのような形でアルバイトの面接などをしているのだった。
 彼の仕事ぶりは真面目そのもの。文句のつけようがない仕事ぶりだ。
 私の指示通りにテキパキ動くだけではなく、そのスピードもさることながら丁寧に作業をしてくれる。
 それにしても、彼が初めてうちにきた時以来、コーヒーブレイクのことを話している姿を見たことがない。
 今になってみれば、彼の口からあんな発言が出てきたこと自体、信じられないような気持ちだった。
 
 しかしある日のことだった。そんなこと、よせばよかったのに。今になってみればなぜそうしたのかわからない。けれど、私はつい、彼に聞いてみてしまったのだ。
「ところで、前に言っていたブレイク・スルーの調子はどうなの?」
 彼は、まるで私の言葉を待っていたかのように嬉々としてこう言ったのだ。
「今日、それが起きたんです!」
「へぇー、そうなんだ。良かったじゃない」
 適当に合わせておくことにしようかとも思ったのだが、やはり聞きたくなって、
「どうやったら、コーヒーをブレイクできたの?」
 と尋ねた。
 すると彼は待ってましたとばかりにこう言ってのけたのだ。
「はい! それはもう最高です。僕はついに見つけたんですよ」
「何を……じゃないな。ブレイクって何をブレイクするの? その工程にコーヒーが必要なのはどうして? というところに私は興味があるの」
 彼は少し考える素振りを見せながら言う。
「それはですね。僕が求めていたのがブレイクでありブレイクスルーだったということです。ブレイクスルーという現象自体はよく聞くのですが、それがどういう現象なのか説明してくれる人は誰もいなかった。でも、やっと理解しました。僕はようやく本当の意味でのブレイク・スルーができた。人類種の到達しうる最高峰へと辿り着けたと思うんです」
 彼は興奮していた。頬は紅潮して目は爛々と輝いていた。
「つまり、君はコーヒーを飲んでいた時に、自分の殻を破って何か別のものが見えてきたということね」
 彼は大きく何度もうなずいて言った。
「僕がコーヒーでブレイクした結果、何を見たと思います? ……そう! それはブレイク、もとい破壊の光景だったのです!」
 彼の言っていることが、私には全然わからなくて混乱した。ただでさえ意味不明で難解なのに、興奮状態のせいか更に輪をかけてわけがわからなくなっていた。
「えっと、私もコーヒーばっかり飲んでいるよ。けれども、何かがブレイクした! なんて思ったことはないよ。君が飲んだのは、本当にコーヒーだったの? アワヤスカのようなものではなくて?」
 彼は首を横に振った。
「いえ、間違いなくコーヒーでした。ちゃんと挽き立てのものですよ。豆の銘柄までわかります。いつものようにミルを使ってガリガリやっているところを見ていましたからね」
 私は絶句した。そして、この子は大丈夫だろうかと本気で心配になった。
 彼は続けて言う。
「僕の目の前に現れたのは、世界の終わりのような光景でした。空は真っ赤に染まっていて、地平線の向こうからは黒い雲のようなものが迫ってきていたんです。地面は燃えて灰になりかけていて、そこかしこで炎が吹き上がっていました。まるで地獄絵図のようでしたね。僕はそんな景色を見ながら、これがブレイク・スルーなんだと思いました。きっとブレイクスルーというのはこういうことなんだろうなって。僕はそう思いました」
 私は、ただ黙って聞いていた。

「そいつはクビだ。今日限りで」

 普段は滅多に現れないマスターの声で、私は我に返る。カウンターの奥の方で、マスターが彼を睨んでいた。
 彼もマスターの視線を受け止めるようにして立っていた。二人はしばらくそのまま無言で対峙していたが、やがてマスターの方が折れ、奥に戻っていった。
 
 彼が店を出て行った後、マスターは私にだけ聞こえるような小さな声でつぶやくように言った。
「あいつを雇ったのは失敗だったかな」
 私は、マスターのその言葉を聞いて、胸が苦しくなった。
 けれど、何も言い返すことができなかった。
 それからしばらくの間は、彼のことを思い出さないように仕事に没頭していた。
 ところが、ある時ふとした拍子に彼のことを考えてしまい、また、あの時のマスターの言葉を思い出してしまった。
「やっぱり彼をクビにするべきじゃなかったのかも」
 私はマスターにそう切り出した。
 マスターは静かに首を振る。
「いいや、あいつはうちでは雇えないよ」
 マスターはそう言って、ため息をつく。
「あいつはコーヒーブレイクについて何を言っていた? ブレイク・スルーだとか、ブレイク・スルーはブレイク・スルーだと言っていなかったか?」
「はい。確かにそう言ってましたけど……」
「あいつの言うブレイク・スルーはブレイク・スルーなんかじゃないんだよ。ただ単にコーヒーを飲みながら妄想しているだけだ。あいつはブレイク・スルーに失敗した。俺達のように、次の段階に進めなかったんだ」
「マスター?」
 マスターの口調は穏やかだったが、そこには強い意志があった。
「あいつはブレイク・スルーできない。もううちで働くことはできない。わかってくれないか」
 その時、私の心の中には、コーヒーブレイクのことばかりを話す奇妙な青年の顔が浮かび上がってきて、消えてくれなくなった。
「ええ……はい」
「よし。それなら良い。今日もよろしく頼むぞ。コーヒーはもうすぐ来るはずだから」
「コーヒーが来る……? 誰からのコーヒーでしょうか?」
「ああ……まあ来ればわかるよ。とりあえず次の準備をしておいてくれるか」
 マスターは苦笑いをしながら、そう答えてくれた。

〈了〉

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