小説『うろこのある人』(2662文字)
皆さんは、うろこのある男と付き合ったことがあるだろうか。僕は一度だけあった。しかしすぐに別れたので、「うろこの彼氏」というのは僕の空想にすぎないかもしれない。
その「うろこのある彼氏」との思い出あるいは空想を書こうと思う。ただし「うろこのある彼氏」が実在したかどうかについて断言はできない。あるいは「うろこのある彼氏」は実在したけれど、今は僕にだけ見えないという可能性もある。ただひとつ言えることは、僕にはうろこのある恋人がいたということだけである。
うろこのある彼氏は、僕より十歳くらい年上だった(正確な年齢を聞いたことはなかった)。そしてとてもハンサムな男だった。身長も百八十センチメートルを超えていたはずだ。顔だちもすっきりしていて彫りが深く、目が大きくて黒目が澄んでいた。髪も長くてきれいだったし、唇の形もよく、声にも張りがあった。彼はいつもきちんとネクタイをして、シャツを着ていた。靴もかっこよかった。そんな彼の外見については特に何も言うことはないだろう。うろこのある男以外は僕にとって単なる色モノ、色のついた水たまりにすぎなかったということである。
さて、どうしてそのような色つきの水たまりのような人間が僕の恋愛の対象になったのかと言うと、それは僕にとってうろこのある男しかいなかったからである。うろこのない人間は誰ひとりとして恋愛対象ではなかった。うろこがない以上、彼らはみな赤の他人であり、僕は彼らに興味を抱くことができなかったのだ。
僕たちが出合ったのは高校一年生の夏休みだったと思う。その日、朝から雨が降っていたのを覚えている。夕方になると小降りになり、夜になる頃にはやんだのだが、そのとき僕は傘を持たずに外出していたのである。家に帰るために駅へ向かっていると、突然背後から誰かに声をかけられた。振り返るとそこに一人の青年が立っていた。背が高くて顔だちの整ったハンサムだった。しかし彼が着ているのは、よれよれになって肩が落ちている白いTシャツと、膝まで丈のある黒いスラックスだった。彼は僕に向かって何か言った。しかし僕の耳はそれを聞き取ることができず、雨の音だけが耳に響いていた。僕は何も言わずに彼を見つめていたが、すると彼はふたたび同じことを口にした。
「ねえ君、ぼくのことが見えるかい?」
もちろん見えた。僕はかれのうろこに目が釘付けになっていた。でも、どうして見えるかと言われたらよくわからなかった。そこで僕はこう答えた。
「はい、見えます」
「そうか……それじゃあ、やっぱり君は普通の人じゃないね」
そう言って微笑む彼の顔を見たとき、僕は一瞬のうちに恋に落ちたのである。
「どうせ普通じゃないんだったら、もっと特別な存在になりたいと思いませんか? ぼくたちは二人で一緒になってそういうものになれたらいいと思うんですけど」
という僕の告白に対して、彼は「そうだね、なるほど、そうかもしれないね」と答えた。それから僕たち二人は手をつなぎ、歩き出した。
そしてしばらく無言のまま歩いているうちに雨が降り始めた。
「ああ……これじゃあまた濡れてしまうね」と彼はつぶやくように言った。
「もう濡れてると思います」と僕は言った。
彼は首を横に振った。
「大丈夫だよ、だって今こうしてる間にも君の体からはどんどん水が流れ出ているじゃないか」
「そうですか」と僕は言った。
確かにその通りだと僕は思った。しかしそれでも僕はまったく気にならなかった。それよりも彼と手をつないで歩くことに神経を集中していたからだ。彼の体温を感じながら歩いていたかった。雨に打たれても寒くはなかった。だからそのまま歩いていった。やがて駅の明かりが見えてきたところで、彼は足を止めた。彼は僕の方を見て微笑んだあとで手を振り払った。そしてこう言った。
「ごめんね。ぼくにはこれから仕事があるんだよ」
「仕事って何ですか?」と僕は聞いた。
彼はちょっとの間だまっていたが、それから急に笑顔になった。そして両手を広げた後で空を見上げた。
僕はその動作が何を意味するのかがわからず戸惑ったが、彼に合わせて視線を上げてみた。するとそこには巨大なうろこがあった。
まるで虹のように七色の輝きを持ったうろこだった。彼はそれを手に持って光らせながら振り回し始めた。うろこがぶつかり合う音があたり一面に響き渡った。うろこはとても硬くて鋭利な刃先のようでもあったし、ガラス細工でできているような脆さもあった。彼のうろこは彼の腕の動きに合わせて舞い上がり、あるいは落ちた。それは雨粒とともに宙を流れた。僕はそれを眺めながら、これが本当の恋なのだと思った。そして彼と一緒に暮らすことが幸せなのだと感じた。しかし彼は唐突に「さあ行くよ」と言った。僕も黙ってうなずいた。
そして駅に入って行った。切符を買うときにも彼はお金を使っていなかった。改札を抜けてホームに出た。ちょうど列車が来ていたようで、彼は急いでそれに乗り込んだ。僕はその後を追った。列車に乗って席に座るとすぐに扉が閉まった。彼が窓の外にいることに気づいた。僕は窓ガラスに顔を近づけて彼に話しかけた。
「あのうろこ、きれいですね。あれは何ていう魚なんですか?」
すると、列車の走る音にまぎれてかすかに彼の声が届いた。
「それはぼくにもわからない。でも、たぶん、この世界のものではないんじゃないかな。ぼくらはいつもそういうものを探しているのさ。ねえ、君はどうしてこんなところにいるの?」
「それは……わかりません。でも、あなたに会うためにきたんですよ。きっとそうです」と僕は言った。
「ぼくも、きみに会えて良かった。でもね、きみはここにいない方がいい。ここにはいられないから」
そう言うと、彼は列車と並走するように飛び始めた。そして僕に向かって微笑みかけ、手を振ってくれた。僕も手を振り返した。列車はスピードを上げ、線路の上を走った。
彼は少しずつ小さくなっていった。しかし僕は決して忘れなかった。彼のうろこ、彼の笑い顔、彼の言葉、それらのすべては今も僕の記憶に残っている。
そして僕の心の中にも残っているのである。
僕はその出来事を思い出すたびに幸せになれる。だから、色つきの水のたまりなどではない。たとえうろこがあってもなくても、そんなことはどうでもいいのだ。
僕の大切な人はうろこのある人である。そのことを思いながら、今日もぼくは色つきの水たまりの中を、いやいやながらせめて長靴をはいてバシャバシャと歩いている。
〈了〉