猫を連れて電車に乗ると、子連れの気持ちがちょっぴりわかる_20190515
こんばんは。こんな夜ですが、青い朝です。
ほんじつの雑記です。
猫を電車に乗せた日
明日から10日間とすこし、だいすきなわたくしハウスを離れるから、飼い猫を実家に預けるべくいま電車に乗っている。猫はキャリーケースのなか。手回り品280円を払って乗りこんだ。
猫を電車に乗せるのは、猫をもらってきたあの日以来だと気づく。高校生のわたし、飼っていたうさぎが中学生の頃に死んでしまってからさみしくて、猫が飼いたくて飼いたくて仕方なかった。もちろん反対されたけど、わたしはやってしまった。知り合いの家の裏でうまれたという子猫をひとり、降りたことのない駅まで迎えにいった。わたしの片手におさまるだけのからだをもち、綿毛のようにやわらかでかるい生き物。もらいにいったときは終始、ミーミーと泣きわめいていたくせに、電車ではおとなしくしているいい子だった。いま、その時とおんなじキャリーケースで電車に乗っている。猫を初めて電車に乗せたあの日からずいぶん経ったな。わたし、大人になったと同時に、猫を連れて家を出た。わたしが飼い始めてしまったから、連れてきたのはあらゆることに対するけじめのつもりだったけれど、猫がいなければきっとダメだったこともたくさんある。まぎれもない家族で、この子は我が子。人間も猫も犬も変わらぬおなじ命であるならばもう、猫だって我が子でいいじゃないか。
猫を連れて電車に乗ると、子連れの気持ちがちょっぴりわかる
なんとなく、ちょっぴりわかるかもしれないと思った。“ほんとうの”子連れからしてみれば、そんなことでわかってたまるかと思われてしまうかもしれないけれど、ふだん家でごろごろしてるでしかない猫を電車に乗せるというのはなかなかにどきどきする。
まず、猫はキャリーケース入れるのだが。プラスチック製?のキャリーケースはかなり年季がはいっているから、成長した猫のおもみでややたゆむ。家から駅まであるく道、駅の階段をのぼるとき、「いまキャリーケースがこわれて、猫が飛びだしてしまったらどうしよう」と思ってひやひやした。猫と人間のこどものちがいは、キャリーケースにいれないこと。だけれども、予想外のことがおきたり考えもしない動きをするのがきっとこどもだ。(えらそうに言っているが、わたしはこどもを産んでないしだいぶ年のはなれた妹や弟とかもいないのですべて想像御免)そんなこどもを引き連れているのだから、まずすごい。わたしだったらやっぱりリードとかつけておきたい。こわいや。
つぎ、猫を電車に乗せるとき、めちゃくちゃ配慮する。猫、かわいいけど、猫、嫌いな人わりとおるやん。アレルギーの人も、おるやん。猫、変なおじさんに足蹴にされたりしたらどうしようかと思った。キャリーケースってわりと場所とるし、目立つしで、ラッシュを避けること以外にだっていろんなことを気にかけなくてはいけない。でも、ふだんよく見る子連れのママパパはいつもいつも、これ以上のことを気にして電車に乗っているんだろうな〜と思いはじめたら、なんだか申し訳なくなってきた。
あと、好奇の目?というのが正しいのかわからないけど、猫をかわいいとおもっているのか、それとも毛嫌いしているのか、というのがわからなくてちょっとひやひやした。おじさん、どっちなの。赤ちゃんやこどもを連れていたりしたら、同じだと思う。かわいいね、って言う人もいれば、ちょっとしたことでうるさいとか言う人もきっといる。たくさんの目を気にしているんだろうなと感じた。
それから、うちの猫はこぶりだけれどもう大人なのでわりとしっかり重さがあるし、キャリーケースを持って移動するというのはかなりしんどい。両手が使えない不自由さ。いのちをたずさえて?移動しているという慎重さ。これだって、子連れにも言えること。ベビーカーであれ、そこに不自由さはある。抱っこしてるならなおさらだ、キャリーケースとちがって地においたりなんかできない。
猫を連れているだけだって、あ〜ちょっと誰か代わりに、とか、腕が限界、だとか思ってしまうのに。いや比べるべきところじゃないかもしれないけど、やっぱりちょっとはわかった気になってもいいですか。世の中の子連れ、何食わぬ顔で電車乗ってるけどほんとすごい。
猫を連れて電車に乗った。
そしたらちょっと気づけたかも。
aoiasa
- 20190515
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最後までありがとうございました。 〈ねむれない夜を越え、何度もむかえた青い朝〉 そんな忘れぬ朝のため、文章を書き続けています。わたしのために並べたことばが、誰かの、ちょっとした救いや、安らぎになればうれしい。 なんでもない日々の生活を、どうか愛せますように。 aoiasa