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たまに真面目な話2 アメリカ独立戦争編 #世界史がすき

 前回に引き続き真面目な世界史です。


 前回の真面目な世界史 七年戦争編


 当時アメリカには十三の植民地が存在し、各々はとくに干渉することもなく自治に励んでいました。もともと信仰の自由を求めて移動してきた人の多い土地ですから、独立心旺盛だったのです。

 イギリス本国は、はじめは概ね彼らの好きにさせていたのですが、七年戦争の戦費がかさんで財政が苦しくなってくると、アメリカ植民地に厳しい課税をするようになりました。

 1765年、植民地での新聞なんかに課税する印紙法という法律ができると、植民地の人たちは「代表なくして課税なし」を合言葉に猛反対。つまり、「自分たちはイギリス議会に代表を出していない、声を聞いてもらえない存在なのに、税だけは取ってやろうなんて卑怯だぞ!」と言ったわけです。

 抵抗のお陰で印紙法は撤回されたものの、今度は茶法が制定され、「アメリカ植民地では、イギリス東インド会社からしか紅茶を買っちゃ駄目!」ということに。そこでかの有名な「ボストン茶会事件」が起こったのです。人々が東インド会社の積み荷の紅茶をぜーんぶ海に捨て、海が茶色に染まった…というあれですね。

 イギリス本国の制裁に対し業を煮やした植民地人は、1774年、フィラデルフィアで大陸会議なるものを開き、本国に抗議。翌年にはレキシントンとコンコードにおいて最初の衝突が起こり、アメリカ独立戦争の火蓋が切って落とされたのです。

 開戦当時、アメリカ十三植民地のうち、どうしても独立したい!という植民地が三分の一、イギリス本国の王にあくまで忠誠を誓う!というところが三分の一、べつにどっちでもよくない?というのが三分の一という内訳でした。独立したい組は、この中立組をなんとしても仲間に入れたい。

 そこで、トマス=ペインという人が書いた「コモン=センス」という本が大変な役割を担います。印刷技術万歳です。実に五十万部を売り上げたこの本により、独立の気運がうんと高まります。

 第二回大陸会議においてワシントンが植民地側の総司令官に任命され、1776年7月4日、アメリカ独立宣言が発表されました。(トマス=ジェファソンら起草)これがアメリカ独立記念日となってお祝いされているのですね。

 戦いは、序盤は本国側の有利でした。しかし、イギリスに一泡吹かせるチャンスとばかり、フランスは独立軍の味方をします。(ここでも英仏は喧嘩をしている…(笑))そしてフランスがかつてオーストリアからぶんどったスペイン、イギリスと個人的に喧嘩中のオランダも一緒になって、植民地側に立って参戦したのです。


 また、その頃の世界の考え方の変化も影響しています。

 ルターやらカルヴァンやらによる宗教改革以降、かつて絶大な影響力をもっていたローマ教皇と神聖ローマ皇帝の権威が衰えてくると、それまではさまざまな民族がカトリックという信仰のもとにひとつであり、一人の皇帝のもとに跪いていたのが、揺らいできます。「僕ら、民族ごとにひとつになって、それぞれで宜しくやろうじゃないの」という風潮が高まってくるのです。国々の個別化、領域内の統一の強化、内外の勢力による干渉への警戒…そうして多くの国家が、自分らの国は自分らで管理する権利、主権を主張する主権国家となりました。

 そのような流れの中で、その新しい国家像について議論が戦わされるようになります。イギリスのロックという思想家は「統治二論」という書物をあらわし、まあ簡単に言うと、「国家っていうのは僕らのご都合でつくったのだから、僕らに利益を与えないポンコツ国家なんてぶっ壊しちゃって良いのよん(笑)」という考えを表明。これってなかなか過激ですよね。気に食わなければクーデタを起こすのは、市民の権利だと言っているわけですから。ロックの言は、アメリカ独立にも多大なる影響を与えました。

 またこの時代は、科学革新を背景として、理性重視の啓蒙思想というのが流行った時代でもあります。啓蒙思想は主にフランスを中心として栄え、有名な啓蒙思想家にはディドロやダランベール、モンテスキュー、ルソーなどが居ます。

 啓蒙思想家のひとりであるヴォルテールというおじさんは、前段でお話ししたプロイセンのフリードリヒ二世や、ロシアのエカチェリーナ二世と親交を結び、啓蒙専制君主として社会革新を目指す方法なんかを指南した人です。

 そのエカチェリーナ二世、アメリカ独立戦争では植民地側を支援する目的で、武装中立同盟というものをたちあげます。

 独立戦争時、イギリスはアメリカに物資を送る船を通せんぼする、海上封鎖を行っていました。エカチェリーナ二世はそれに対抗し、「私たちはなんにも関係ないもんね」という顔でアメリカと普通に商取引をしたのです。この武装中立同盟には、プロイセン、デンマーク、スウェーデン、ポルトガルなどの国々が参加し、結局イギリスの海上封鎖は意味をなさなくなりました。


 こうして植民地側は次第に形勢を立て直してきます。物資はきちんと入ってくるし、フランスなどからの援軍もたっぷり、さらには義勇軍まで来てくれたのです。


 アメリカ独立戦争に義勇軍として参戦したのは、フランスのラ=ファイエットやサン=シモン、そしてポーランドの軍人コシューシコなどです。(新版の世界史の教科書にはコシチューシコと表記されていました)

 実はラ=ファイエットはこの後のフランス革命でも重要な政治家ですし、サン=シモンは初期の社会主義者として有名です。この時代の偉い人は何でもやるんですかね。

 そしてポーランドの軍人コシューシコは、アメリカ独立戦争後、祖国に帰って再び武器を取ることになります。この頃のポーランドはぼろぼろで、隣接するロシア、プロイセン、オーストリアから領土を持っていかれまくり、とうとう消滅してしまう…という悲しい運命が待っています。コシューシコは祖国を守るために戦うのですが、それも叶わず敗北してしまうのです…。

 それはまた別の話。今はアメリカ独立戦争でしたね。


 世界の覇者イギリスを面白く思っていない国々の応援により、植民地側は着々と勝ち星をあげ、ついに1781年、ヨークタウンの戦いにおいて独立軍の勝利が決定的となりました。実はこのとき、植民地の人たちからなる軍勢より、フランス軍勢のほうが多かったとか…。どれほどフランスにおんぶにだっこで成し遂げられた独立なのでしょう。逆に言えばイギリスがそれほど強大だったということでもあり、また、フランスがそれほどイギリス嫌いだったということでもあります。

 そして1783年、パリ条約が結ばれ、アメリカ合衆国は独立を承認されるとともに、イギリスが直接持っていたミシシッピ川以東ルイジアナという、広大な領地を獲得したのです。


 フランスとしては、おめでとう!と言いたいところだったと思いますが、そんな余裕は実はありませんでした。戦争というのは莫大なお金が掛かるのです。まして七年戦争なんかも散々やったその後で、海の向こうに軍をどしどし送り、一方では宮廷人はヴェルサイユで絢爛豪華…。

 もうおわかりですね。フランスは、アメリカの面倒を見すぎたのです(꒪д꒪II

 まあ、全然それだけではないのですが、しかしアメリカ独立戦争がフランス革命に与えた影響は、少なくとも皆無というわけではなかったでしょう。


 次回に続く…

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葵
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