たまには真面目な話をしよう 七年戦争編 #世界史が好き
葵の記事を読んでくださっている方々、まことにありがとうございます。私は最近の投稿を振り返ってみて愕然としました。
秋ピリカからこっち、一度企画に参加させていただき読書感想絵をてれーっと描いたあと。飯テロと登山しかしてない!
というわけで、たまには真面目な話をしようと思います。ご興味ある方はふううーん、くらいに斜め読みしてください。
一応教科書と睨めっこして書いていますが、万一間違ってたらごめんなさい。そーっと教えてください:( ;´꒳`;)
聞きかじった話ですが11月20日からのホロスコープはアメリカ独立やフランス革命の時代と一致しているそうですね。こういうのはあまり詳しくないので間違っていたらすみません。
というわけで、せっかくなので、そのあたりの世界史をざっくり雑に振り返ってみましょう。
十七、八世紀になると、イギリスとフランスはそれはもう世界中に植民地を持っていたわけですが、つまりはあちこちで起こる戦争は突き詰めれば「また英仏の喧嘩やん」ということになっており、これは一周回って超仲良しじゃん、と私なんかは思いましたけれど、それはともかく、ヨーロッパで起こる戦争が植民地でも同時進行していたわけですね。
なかでもオーストリア継承戦争と、それに続く七年戦争の話をしましょう。
オーストリア・ハプスブルク家の王は当時、伝統的に、神聖ローマ帝国というばかでかい帝国の帝王も兼ねるという重要なポジションに居ました。(ちなみに神聖ローマ帝国はローマとは何の関係もありません。むしろ現ドイツです)
1740年、そんな重要なポジションであるオーストリア国王に、マリアテレジアという女性が就きます。
プロイセン国王のフリードリヒ二世は、これに難癖をつけました。「そーんな大事な役職、女の子に任せられるわけないじゃん!」とこう言うわけですね。
当時プロイセンはほんのひよっこ弱小国で、フリードリヒ二世は父に続き、自国を叩き上げようという真っ最中でした。といっても彼はばりばり軍人気質のお父さんとは折り合いが悪かったみたいですけれどね。ロココ様式の可愛い宮殿、サンスーシ宮殿は、フリードリヒ二世が造らせたものです。個人的には彼の株はわりと高めですね。
マリアテレジアは、そんな大役に女性ながら就くというところからも窺えるように、大変な才女だったのでしょう。フリードリヒ二世はそんなことはわかっていて、新興国プロイセンの為にオーストリアから何らか巻き上げたくて、まあいわば、戦争を始める言いがかりをつけたわけです。「女の癖に」というのは口実なのですね。
同じようなことを言う国王・領主は何人か居て、結局オーストリア継承戦争に発展するわけなのです。
マリアテレジアはその戦争で、シュレジエンという鉱工業地帯を取られてしまいます。これはオーストリア経済にとって大きな痛手。失地回復を目指す彼女は、当時としては画期的な策に打って出ます。
フランスと同盟したのです。
オーストリアとフランスは長年敵対関係にありました。それを遡ると、十五世紀末から十六世紀あたりまで行きつきます。十六世紀初頭、スペイン・ハプスブルク家の王が、フランス王をおさえて神聖ローマ皇帝に選出されました。ハプスブルク?そうです、ハプスブルク家はスペインとオーストリアの両家に分かれている、同じ穴の貉なわけです。
ハプスブルク家の強大化を恐れたフランスは、あらゆる手練手管を講じてハプスブルクをいじめました。だって挟まれているわけですからね。現ドイツとスペイン、挟み撃ちにされてはかないません。ルイ十四世(ヴェルサイユ宮殿を造った人です)の時代、なんとかスペインは取ったものの、相変わらずオーストリアにくし、の念は強く、それを向けられるマリアテレジアとて、フランスに良い思いは抱いていなかったはず。
しかし!そうも言っていられません!シュレジエンを断固取り返したい!
そこで彼女は末娘をフランスに嫁に遣り、「これでひとつ、仲良くしましょうや」と言ったわけです。そう、その末娘こそ、マリーアントワネット!貧しいフランス国民に向かって、パンがないならケーキを食べればいいじゃないと言い放った、ザ・箱入りお姫様なのです!ああ、あわれ。
それはともかく、長年の確執を打ち壊したこの仏墺の同盟を、「外交革命」といいます。そしてオーストリアとフランスは、シュレジエンを取り返すべく、イギリスと同盟したプロイセンと、七年戦争を戦います。
そう!ここでよーく見てください!フランス対イギリスの構図が透けて見えますね!英仏はこの七年戦争をはじめとして、さまざまな戦争で喧嘩します。ことあるごとに痴話喧嘩に収束するカップルみたいに!仲良しか!とツッコミたくなります。
そしてこの七年戦争の裏側で、植民地において同時進行していた英仏の痴話喧嘩がふたつ、これらは世界の覇権争いにおいて重要な意味を持つことになります。
ひとつは、@インド。当時は完全にイギリスのもの、というわけではなく、ヨーロッパ各国が好き勝手に港町に貿易拠点を置き、「ココは俺のシマだから」とふんぞり返っていたわけですが、1757年、プラッシーの戦いが七年戦争の背後で行われ、イギリスのクライヴがフランス・ベンガル太守軍を破りました。
もうひとつは、@北アメリカ。ここにも、当時はフランスの植民地が存在しており、やっぱりそれぞれのシマでふんぞり返っていたのですが、フレンチ=インディアン戦争が起こり、こちらもイギリスが圧勝。1763年のパリ条約でイギリスは、フランスのアメリカにおける植民地をすっかりぶんどってしまいました。
七年戦争も、プロイセン=イギリス側の勝ち。マリアテレジアはどんなに悔しかったでしょうね…。
結局、長年にわたる英仏の喧嘩は、イギリスの勝利に終わったのです。
とはいえ、互いに無傷では終われないのが戦争というもの。世界の覇者となったイギリスだって、それはもうへろへろなわけです。戦争には莫大なお金がかかります。そのお金を、イギリスは植民地に重税をかけることで補っていました。
…そのことが、アメリカ独立戦争に繋がっていくのです。
次回に続く…