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『目にする』と『見る』の違いを実感したこと。

こんばんは。青井です。

⏫️ここでは、私が『30日間スケッチ』を始めたきっかけと
その際に設けた自分なりのルールについて語りました。

今後しばらくは折を見て
その『30日間スケッチ』を続けていく中で私の感じたこと
気付いたことなどの1つ1つを
いくつかの記事に分けて語っていけたらと思います。


今回は
『目にする』と『見る』の違いを実感したことで
自分の日常の中にある感動に
より多く気づけるようになったこと。

そんなお話です。



◇『見る目』が変わる、育っていく


私はそれなりに長い間、趣味として絵を描いてきましたが
それは『頭の中のイメージをかたちにする作業』であることがほとんどだったような気がします。

これまでにも、自分なりにそのイメージをより良くかたちにするために
資料を用意して、それを参考にしながら描くだとか
そういったことは沢山やってきたと思う。

ですが、この『30日間スケッチ』を通して実感したことの1つとして

「私は普段、目の前にあるものを見ているようで
 全然見れてなかったんだな」

というものがありました。


それを目にしている
(視界に入れている)

ということと

それを描くために見る(観察する)

ということは全く別物だったんだなという実感です。


元々、特に深い考えもなく始めた『30日間スケッチ』。

最初のうちは、ただ実物やその日自分で撮った写真を見ながら
ただざっくりと描いているだけでした。

(最初の頃のスケッチ)

何を描きたいだとか、どう描きたいだとかも何もなく
何か描けたら、それで「今日のノルマを達成」とばかりにノートを閉じるだけ。

そして、この30日間スケッチの目的は
『なんでもいいから毎日描き続けること』だったので
それで実際、何も問題はありませんでした。


ですが、描き始めて10日ほど経った頃
最初の頃のスケッチと比べて
明らかに細部の描き込みが増えていることに気づきました。

それはきっと、私の気持ちが落ち着いていったのと同時に
描くために観察する力が、少しずつ私の中に育ち始めたからだったと思っています。

そして
「自分が『それ』のどこに美しさを感じているのか」が
少しずつ明確になっていったからだと思っている。

それが自覚的であったかどうかは別として
「私はここが美しいと思う」「ここが好き」という感情を出発点に
『描く』ためにそれを見つめ続けることは
それをただ視界にとらえていただけの頃よりも
はるかに高い解像度で『それ』を見ているのだと知りました。



◇「この花は、こんなにもきれいだったんだ」


この夏、私は何度も朝顔を描きました。

私にとって朝顔は
「好きは好きだけど大好きでもない」
「ひまわりと並んで、夏を代表する花のイメージ」
「小学生の頃、成長日記をつけるために育てたなぁ」

その程度のものでした。

だけどスケッチを続け
描くために細部を見る目が自分の中に育つにつれ
私は少しずつ朝顔の魅力に夢中になっていきました。


満開の花の美しさは言うまでもなく

きっとゆるいらせんを描きながら開くのだろう蕾のかたち
ゆったりほどけるように開き始めた花

撫でると表面に生えた産毛がサワサワと心地良い葉っぱ

満開を過ぎてきゅっとすぼまった花
風や虫の影響だろうか破れてしまった花
雨の重さに耐えられずくたくたと折り畳まれた花

(種は9月に入ってから確認できました)

色褪せて枯れた花
そしてからからの種

そういった朝顔の命の過程の色々な場面が
あまりにも新鮮に目に映り
どれもが美しく、私に感動を与えてくれた。


私はこれまで何度も朝顔を見てきたし、描いてもきたはずなのに
朝顔という花が、添えた指が透けて見えるほど薄いなんて知らなかった。

太陽の光を受けた花の表面が、蝶の鱗粉や
細かいラメを散りばめたみたいに
あんなにもキラキラするものだなんて、ずっと知らなかったんです。


朝顔という植物にこれほどまでにじっくりと向き合ったことは
これまで1度だってなかったんじゃないか。

私は、この植物のことをなんにも知らなかったんじゃないか
とさえ思いました。


この感慨は、朝顔だけの話ではありません。

30日間のスケッチの中で、色々なものに対して繰り返し感じたものでした。

「この花は、こんなにもきれいな花だったんだ」
「この虫はこんなにも美しいかたちをしていたんだな」
と、まるでそれを生まれて初めて見たみたいに
ハッとする瞬間に、何度も出くわしたんです。

それは私にとって、間違いなく喜びでした。



◇当たり前の日常の中にある感動を、拾い上げていくこと

「当たり前にある日常を大切にしよう。」
「自分の身の回りにある美しさ、豊かさに気づこう。」

そういったことは、結構よく耳にします。

でも耳にしすぎて、どこかとらえどころがなくふわふわしている気がする。

だけど、私が30日間スケッチの中で感じたのも
きっと、そういうものだったと思っています。


描くために育ち始めた私の『観察する』目が
私の生きている世界を、前よりも少し、鮮明にしてくれたように思う。

これまでも当たり前に送ってきた私の日常も
実は驚くほどの繊細さ、緻密さ、美しい色かたちでできていて
その1つ1つが私を感動させてくれることを
改めて感じることができて、嬉しかった。

頭の中のイメージをかたちにすることばかりを
『絵を描く』ということだと思っていた頃
私は自分の身の回りのものを
まるでマクロレンズで切り取るように、細部まで見つめてきただろうか?
と思う。

このスケッチを始めた頃みたいに
落ち込んで、心が空っぽだと思うこと。
生きることにうんざりして、全部投げ出してしまいたくなること。
自分のおくる毎日や自分自身が
生きる意味や価値のないものだとさえ思えてしまうこと。

間違いなく、この先もあると思います。

私は今も鬱や体の不調と生きているし
そうでなくたって、生きてるだけで人間色々あるもんだから。


だけど
30日間のスケッチをしたノートを見返すと

これは作品集でもなんでもなく、誰に見せるわけでもなかったから
人の目も何も気にしないで
日によって馬鹿正直に荒れたり丁寧だったりする線も色も
そのままに残っている。

日々を生きた自分がそこにあって
その時咲いていた花や、美味しかった食べたもの
そばにあってくれたものたちの色々があって。

そして何より、それがそこに描かれているということは
私がそれとただ向き合い、自分と向き合った30日間が
確かにそこあったということです。


私の毎日が空虚なものだなんて、なんで思えたんだろう。

これを美しいと感じられる私の心に何もないとか、ありえない。

誰がなんと言おうと、私は私の描いたものが好きだ。


そう私に思わせるような力強さが、そこにはありました。

全部のページが、私の日々を肯定しているようだった。



あの30日間を終えてから
「毎日描く!」という縛りはなくなりましたが、スケッチ自体は続けています。

自分の日常の中にある美しさなんて
日々の慌ただしさの中で、私はきっと何度でも簡単に忘れてしまう。
でもそれが普通だし、それでもいいんだと思う。

自分にとって価値ある大切なことは
何度忘れても、また思い出せるようにできているのだろうし
私の場合、今はこのスケッチがその役割を担ってくれているみたいだ。

だからこの習慣は、ゆるゆるとでも
今後も続けていけたらいいなと思っています。

そして、その中で感じたことなどを
ここでシェアさせてもらえたら嬉しい。


なんだかまとめみたいになっちゃったけど
語りたいことはまだまだあるので、続きます…🙂

読んでくれて、どうもありがとう。

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