無知って何??ヨガ哲学における無知とは
今日のお話はヨガ哲学でいうところの罪について。
キリスト教社会で罪というと、罪を犯して、神様が罰を与えるというような、そんなイメージです。
ですが、ヨガの罪とは、間違えた自己認識により、自分を見失っていくことをいいます。
私たちは過去の経験、周りの環境からひとりひとりが違う世界観をもって生きています。
自分とは・・・・・・。
実は自分というのはすべて周りとの縁によって定義されています。
仏教ではこれを縁起といいます。
会社員の自分なのか、親としての自分なのか、子どもとしての自分なのか、権力を持っているのか、学力を持っているのか、色んな縁起を持っていて、すべて本当の自分というよりも、社会の中で機能するための自分。
いろんな鎧を着ているうちに、本来の自分から遠ざかり、何かを身に着けた自分が本当の自分だと思い込んでしまいます。
例えば、いい会社に入ることが人生の成功だと思っている人は、いい会社にはいれなかった人に対して、優越感を持ちます。
優越感を持っているから、逆に、自分が失敗したときやうまくいかなくなったときに許せなくなってしまう。
そんな経験をきっとみんなが持っていて、辛くなったり苦しくなったり。
けれど自分とは、
本来はもっと純粋な存在であり、自分も他人も同じように素晴らしい命を持った存在です。
それを忘れて自分だけが優れている、劣っていると思うことは、周りとの境界を作り出し、孤立し、生きていくための縁を遠ざけてしまいます。
本当の自分はどんな存在なのか、無知とは何か、考えてみることは、自分の心の平安につながること。
自分の縁起を全部外したら、何も残らない。
だけれど残っているものは……??
私は愛かな~~~~~~と思っています。
だから本当の自分がわかった、ヨガでいうと悟った人って利他的に生きるようになるのではないでしょうか。
そこにエゴがないと、人のために幸せになれる。
人のためが自分のためだとわかっているからです。
そう考えると、ヨガで無知を知るって大事ですね。
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