宗教(スピリチュアル)はただのエンタメ
聖書や分厚い本、動画や説法などといったものから、「気づき」など得られません。付け加えると、祈りや読経、お参りといったものからも同じことです。
それらを読んだり、観たり、聴いたりしたときに、ハッとすることや腑に落ちること、心が救われることがあるため、そういったものを気づきだとか達観しただとか勘違いしてしまう気持ちはわかります。
図面描きに例えるとわかりやすいでしょうか。図面を量産するばかりでは、世に必要とされている物理機器は生まれません。実際に物質を混ぜてこねてくり抜いて、やっさかもっさかし、修正などを繰り返した末に物理機器はようやっと世に生まれ出ます。もっと言うと、最悪図面は無くても、ものは作られますが、図面しかないのでは、ものは生まれ出ません。
話は少し逸れますが、世の中では往々にしてアイデアマンを賞賛する気配があります。気付きにくいかもしれませんがアイデアは、ただの空論です。それを形にするということの工程のほうがよっぽど骨が折れるのがこの世(四次元世界)の相場なのです。大事なのは「実質的行動」の方なのです。そこからしか、体験・経験的気づきは得られず、はたまた達観するまでには至りません。
話を戻しますと、宗教(スピリチュアル)は、読んで終わり、聴いて終わり、唱えて終わり、祈って終わり、ということで成り立ってしまっています。そこからは何も生まれません。目の前の生活と真摯に向き合って生きる中からしか、気付きや達観には至れません。聖書のことば・はたまた宇宙人だとか神様だとかと言われるものの話やことばと「カメレオン化」して自分迄もがその思想を手に入れたと思いたい気持ちはわかりますし、私もそういった経験があります。しかし、残念ながらそれは、往々にしてただの「同化」なのです。
こういったものを、エンタメとして楽しむことを忘れがちなのが危ないのです。オウム真理教なども、そこからあらぬ方向へつっぱしってしまった集団のひとつです。
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