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第1回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~すべては蝶から始まった~

蝶とかシャボン玉とか、
もしくは、
蝶とかシャボン玉みたいな人間とかが、
幸せについて、
いちばんよく知っているように思えるんだ。

        ——フリードリヒ・ニーチェ


『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第一回




要る要らないの判断基準は常時曖昧で、
気分と社内情勢に依るところが
多分にある。

無駄が多いと謂うより
無駄で出来上がっている場合は
必要不可欠と呼ばれるようになる。
そういう会社に僕は勤めている。

僕は嘱託として雇用されている。
不満は無いとわざわざ明言することに
特に意味はない。

ただ、嘱託という響きは爺臭いので、
アルバイトと呼びたい気はする。
残念ながらこの会社には
そういった雇用形態は存在しない。

正社員か嘱託か派遣。
この分類の仕方には諸説ある。

外部に対する演出力、
固有名詞への帰属意識の有無または
依存度、
ユニークな知性や
得体の知れない発想を
上役陣の許容範囲内でできるか、
などの理由で分類されるらしい。

何をすれば仕事がデキる奴に分類され、
何をしでかせば仕事すらデキない奴の
レッテルを貼られるのかについては、
人間界での
リレーションシップに対する
運次第だと思われる。
無論、
僕は主観でしかものを述べられないので、
以上の諸説には
偏見が介在している可能性が高い。


ところで、
僕の勤めている会社は
「僕の会社」ではない。
多くの社員は誤解しているらしく、
会社に対して所有格を使う。
my car, my friend, my destinyの具合に。



「かゆいところに手が届く
 ウルトラボンドラー」

会社のエントランスに掲げられた
青地の看板には、
白抜きでこう謳われている。
「かゆいところに手が届く」と
「ウルトラボンドラー」の間には
人差し指をピンと立てた手のマーク。
その人差し指の先からは、
小さな黄色い三角形が
一つの頂点を人差し指側にして、
二つ飛び出している。

毎朝僕はこの看板を
確(しか)と見詰めながら歩いている、
様に見えている。

エントランスに近づくまでの数秒間を
ぼーっと見ているだけだとしても、
傍からはそう見えている可能性は高い。
僕の瞼がくっきりとした
二重である要因は大きい。
あくまで僕の推測だ。
どう見られていても、
あまり構わないことにしている。


僕の所属している技術開発部は、
三階に位置する。
一階と二階は工場だ。
長方体のだだっ広い部屋には、
南北へ二分の一に分割した辺りの底面に、
二十センチ程の段差がある。
一段上になっている北側が
事務所として扱われており、
デスクと椅子がチームごとに
島を成して並んでいる。
全部で八十人程が座れるだろうか。

段下である南側が実験室と呼ばれており、
黒い長机が所狭しと並列している。
机の下や横には、
この会社で生産もしくは開発中の試作品や
量産品や抜き取り品が
箱に入った状態で、もしくは裸のままで、
積まれ、或いは転がっている。

この空間を成すあらゆる壁際には、
製品置き場や仕様書類置き場用の
スチール棚が設置してあり、
唯一水回りである最南端中央部壁のみ
剥き出しになっており、
手で触れることが出来る。

今説明したことを
もっと分かりやすく言い換えると、
実験室側は全体的に
製品塗れのごみ置き場の様相を呈しており、
そこになんとか実験台と椅子を、
掻き分け設置したような状態である、
ということになる。

その実験室側の最東端に、
僕の座る椅子が埋もれて在る。
従業員のほぼ全員が
事務所側にも席が設けられているが、
あちら側に僕の席は存在し無い。
理由を聞いたことはないが、
これからも聞く必要は無い。

尚、事務所と実験室の間に
壁などは存在せず、
胸の位置程ある高さの
スチールキャビネットが
東西の方角へ一列に配置してあり、
これが唯一、
二つの空間を隔てる衝立っぽさを
醸し出している。
なので、
実験室で発生する騒音や異臭は
全て事務所と共有しているし、
事務所での電話や話し声も
大方筒抜けである。


僕は、他の従業員よりも、
一時間早く仕事を開始する。
フレックス制を利用しているのだ。
七時二十分に出社し、
エアコンのスイッチを入れ、
三リットル用ポットに水を入れ沸かし、
まだ施錠されている東側のドアを開錠する。

この三つの作業は
別に僕の必須業務ではないが、
一番早く出勤する僕が
やるはめになっている。
電気は自分の座る場所の頭上にある
一灯のみを点ける。
ブラインドに閉ざされ
仄暗い事務所と窓の無い実験室は、
一灯の蛍光灯により
さらに仄暗さが強調される。
十分後には席に付き、
会社の近くで買ってきた
チョコクロワッサンと
ペットボトルに入ったミルクティーを
摂取する。
すると南側中央のドアが開き、
図焼きチームのロボさんが
音も無く入って来る。

「ロボさん」とはニックネームで、
本名は熊谷さんだ。
歩き方や所作がランダム感に欠けており
ロボットのような
一定したリズムで移動するために
こう命名されたらしい。
僕よりも十年は先輩のはずで、
社歴は二十年を超える。
彼も自分の実験台だけを蛍光灯で照らし、
そこで朝食を摂る。
総菜パンか何かを二つと、
パック入りのジュースを一本。
コンビニは会社の裏手に一軒と、
道路を挟んだ向かい側にもう一軒の、
計二件存在するが、
どちらのコンビニで買っているのかは
知らない。
もしくは駅前のコンビニかもしれないし、
駅前から会社までの道中で立ち寄った
コンビニかもしれないし、
前日に自宅近くのスーパーで
買っているのかもしれないが、
どこであろうと問題は無い。


ポットが沸き上がる頃に
紅茶を淹れに行く。

「お、おおはようございます」
「おはようございます」

注ぎ終わり挨拶をしながら振り向くと、
ロボさんが
マグカップを両手で胸の辺りに持ち、
つぶらな瞳を僕に向けている。
ポットの順番を譲り、
真正面のポットで
お湯を注ぎ始めるロボさんの真横で、
何か思いつたことや
気付いたことがあれば僕から話し掛ける。

「超新蝶の体系研究が
 そろそろ始まります」

するとロボさんはお湯を注ぐ手を止める。

「す、それは、いいい、忙、しい
 です、ね。繁忙、前に、
 しし飼育ポットの、し、室圧変動課題、
 も、っっ無事解決、で、っよかったです」

そして僕は
手を止めてしまったことを詫び、
ロボさんは「いえいえ」と答え、
僕は流しの三角コーナーに
出涸らしを置き去りにする。

自席に戻ると、
あと十分で八時になるという具合だ。

僕はリュックから
シルバー色をしたカセットの
ポータブルプレーヤーを取り出し
音楽を聴き納める。
Elijionの1stアルバムは、
家を出てから電車に乗り、
そこからバスに乗り換えて
十分程したところで
一度聞き終えてしまい、
二度目のフォワード再生に突入していた。
アルバム名でもある
三曲目のUntil Stillを頭出しして
聴き直しながら、
就業時間へと移行していく。



【YouTubeで見る】第1回 (『ノラら』堀戸から見た世界)


【noteで読む】第2回 (『ノラら』堀戸から見た世界)

【noteで読む】(『ノラら』紗英から見た世界) 全編 @マガジン

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