第11回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~父と目と目を合わせながら話すなんてことは、 もう死ぬまで叶わないのだ~
『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第十一回
程なくして私は父を連れて
紹介された病院の循環器科へ
タクシーで連れていくことになった。
母も一緒だった。
私に負担を掛けまいと思って
付いてきてくれたのだろう。
父は終始不安げな表情(かお)をして
車椅子の上で
座り心地悪そうにしていた。
タクシーでの移動のときも含めて、
診察台に移動したり
待合室に移動したりと、
車椅子から立ったり座ったりを
繰り返したせいで、
父の顔はみるみる
蒼白くなっていった。
「手術なんか…
わしができるんかいな。
糖尿病やさかい言うて
歯ぁすら治すんも
できなんだのに…。はぁ、
しんどいわ、ふらふらでな。
足がな、もう付いて無いみたいに
感覚がなくなってもうてて、
この足が今どこを踏んどるかも
わからんのじゃ」
父は頬の筋肉を
全力で下げ切ったような
悲壮な表情(かお)をして、
白くなった目をあたふたと
泳がせている。
母がそれを聞いて
「カテーテル手術っていって、
まだお父さんもそれなら
できるかもしれないから
ここ紹介してもらえたんでしょうが」
と、怒った調子で言葉を刺し返した。
検査のあまりの多さや
待ち時間の積み重なりで、
父も母もそして私も
徐々に疲れていった。
母は背中の辺りが痛いらしく、
たまに眉間に皺を寄せて
痛みにぐっと堪えたりしていた。
一通りの検査を終えると、
椅子のない長机だけが並んだ小部屋に
案内され、そこで看護師から
入院手続きについての話があった。
精密検査が必要とのことで
結局入院することになったのだった。
何故父や母がこんな目に
遭わなきゃいけないのだろう、
長年患っている糖尿病のせいで、
既に血管はボロボロだというのに
何故今頃になって
カテーテル手術を
させたがるのだろう、
何故いつもいつも私たちが
こんな目に遭うのだろう、
こんな辛い思いをしてまで
生きる意味は何なのだろう…
私の頭の中を
偉大なる凡庸な問いが
駆け巡っていくと同時に、
自分の小さな胸を誰かに思い切り
ぶん殴られたかのように
胸の辺りが無性に苦しくなってきて、
心臓が眩暈を起こしたみたいに
ぐわんぐわんと回転し始めた。
急に周囲の景色が
スローモーション化していき、
化粧の剥げ掛けた小太りの看護師が
母に向って鈍い声で
何かを質問している姿が
異常な明晰度でもって
視界に飛び込んできた。
やせ細った首に縦皺を作って
頷きながら質問に答える母が、
その看護師のデカさの
二分の一にも三分の一にも
小さく映った。
気付くと私は
持っていた入院手続きの書類を
むちゃくちゃに切り裂き、
床に投げつけていた。
「お父さんのせいで、
お母さんは癌になったんだよ!
いくら遺伝性の糖尿病とはいえ、
なんで若い頃に糖尿病って
わかった時から
気を付けて生活しなかったのよ!
そのせいで
お母さんの管理がなってないって
親戚から責められてるんだよ!
お母さんにばっかり負担かけてさ…
全部お父さんのせいなんだから…
ビール飲んで、食べれるだけ食べて、
なんの制御もしないまま欲に任せて
食べまくってきたせいじゃん!
そのせいでそんな躰になったんでしょ!
…なんでこんなことになるの、
ねえ…なんでこうなるの…」
理不尽な攻め方をしていると
自覚しながらも、
父を罵しることを止(や)められなかった。
涙が溢れそうになるのを
堪えているせいで、
右の瞼が痙攣している自分を
不様だと思った。
堪えていたはずの涙は
「紗英ちゃん、ごめんな」
という父の
消え入りそうな掠れた声を聞いて、
一気に溢れ出てきてしまった。
宙を彷徨うように視線を動かす父を見て
不憫に思った。
白内障の父と、
目と目を合わせながら話すなんてことは、
もう死ぬまでないのだということを
ふいに思った。
酷いことを言ってしまったという後悔は
すぐにやってきたけれど、
謝ることが出来なかった。
「紗英、だいじょうぶ?」
潤んだ目をした母が、
への字に下がった唇を
やっと小さく動かしながら
震える声でそう言った。
その声に小さく頷いてみせた私の元へ、
母の隣にいた看護師が近づいてきて、
散らかった紙屑を拾い始めた。
悪いと思って私もしゃがんで
一緒に拾っていると、
その看護師が紙屑に視線を落としながら
こう言った。
「あなたももう大人なんやったら、
こんなことするんはどうかと思うわね、
ここは家じゃないんやから。
最近の子は礼儀も知らんと
言いたいことだけ言って終わりでしょ?
新しい書類出して貰ったら
済むこととでも思ってます?
あなたがたと違って
こっちは暇じゃないんですけど、
看護師っていう仕事はとくに」
彼女は拾い集めた紙屑を
長机の上に置くと、
右手で鼻の油を摘まんで
その指を擦り合わせた。
癖なのだろうか、
そういえば母に何か
質問しているときも、
何度も親指と人差し指で
鼻をぎゅっと摘まんで、
その指を擦り合わせては
指先に添付した鼻の油の臭いを
嗅いだりしていた。
こんな手で注射器やら点滴やらを
打たれるのかと思うと
胃の辺りがむかむかした。
母が「すみません」と言って
その看護師に恐縮してみせる。
推し量ったり
状況を分析したりできない
知能レベルの低い、
ただ態度だけは人一倍でかい女が
こうやって看護師という職業に
就くのだなと、
彼女の皺の溝に溜まった
ファンデーションを
間近で見詰めていた私は、
嫌悪感に基づいた
独自の結論を導き出して、
何も知らないのに知ったような素振りで
対応してくる彼女を
心の中で哀れんでやることで、
自分の惨めさを取り繕おうとした。
そんなことがあってからしばらくして、
検査結果を聞きに
親戚の伯母夫婦と私と楓とで
伯父の運転する車に乗って
病院へ向かった。
母には家で
安静にしていてもらうことにした。
父方の親戚の中でも、
特に遠くに住んでいて
出て来るのに車で
片道二時間は掛かるその伯母夫婦は、
父が別の病院で
検査入院している事実を知ると、
病院までの足になってくれたり
私達を気遣って
夕飯をスーパーで買ってきてくれたり
したのだった。
検査の結果、
結局父の心臓ではカテーテル手術は
難しいということだった。
予感していたことがまんまと的中して、
この病院に、そして
ここを紹介してきた父の病院にも、
なんだかモヤモヤとした
歯痒い苛立ちを覚えた。
父は慣れない病院の勝手に
結局馴染めないまま検査入院を終え、
疲れからか眼も窪み、
髪は以前にも増して
ぼさぼさの白髪頭になっていて一段と
歳を取ってしまったように見えた。
「手術できんゆうても、
今までどおりここででちゃんと
透析しながら安静に
入院しとったら大丈夫やて」
元居た病院に帰って来ると、
伯母がそう言って父を気遣った。
父はベッドに座ったまま
「聡子姉ちゃんありがとうな。
健蔵さんも、遠いところから
ほんまいつもすんません」
と言いながら、
伯父と伯母の気配のするほうに向って
深々と頭を垂れた。
寒かった冬が慌ただしく見世仕舞いし、
心に底流する陰鬱さを残したまま
麗(うら)らかな春をやり過ごすと、
鬱蒼(うっそう)とした暑さに
刻苦(こっく)させられる停滞の夏が、
忽(たちま)ちこの町にまた君臨した。
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