第21回 第二章 (『ノラら』堀戸から見た世界 ) ~ライブを途中で抜け出したお祝いに、 コーヒーで乾杯するために~
『ノラら』
第二章:堀戸から見た世界
第二十一回
「ありがとーう!このまま気持ち
盛り上げっていきましょーう!
じゃあ、次の曲行ってみよう」
曲終わりの直後に、
本当にピールのライブなのかと
疑いたくなるような、
調子外れな繋ぎトークがなされ、
僕は我に返って、
ステージ上のナギィを注視した。
紗英さんが、
納得がいかないというふうな
曇り顔をして僕の顔を覗き込んでくる。
僕も首を傾げて
彼女の心情に呼応してみせた。
彼女は僕の耳元に顔を近づけてきて、
「なんか、スース―するね」
と呟くと、力無く笑ってみせた。
紗英さん流の表現なので、
この場合のスース―する感じが
どういうものなのか、
はっきりとは掴めないでいたが、
きっと、僕の感じている違和と
似たようなものなのだろうと思った。
ステージからは、
スケールフリーなリズムを纏った電子音が、
ナカジマの軽快な指捌きに合わせて
溢れ出していた。
ピールの真骨頂とでも言うべき
その風来坊なモチーフは、
生の楽器演奏から
電子音のマニピュレーションへと
変化した今でも
健在であることを物語っていた。
けど、それがどうしたっていうんだろう——
束の間垣間見た不易流行に、
喜憂の情を持ち込む自分。
心の裏側まで揺さぶるように躍動する
情緒的なグルーヴに、
ノスタルジックな旅情を感じていた。
僕はそのまま、
今ここにあるピールの音楽に
溶け込んでゆくつもりだった。
だが、そんな僕を、
僕の身体は許してくれなかったらしい。
気が付くと僕は、
シエナビオンホールのすぐ側にある、
噴水のほとりに腰かけていた。
ゆっくりと顔を上げる。
背後から水の吹き出す連続音が
サワサワと聞こえてくる。
「もうちょっとお水飲む?」
左隣から、紗英さんの声が聞こえる。
僕に向って差し出された
ペットボトルの水は、
半分近く減っている。
僕は言われるまま、
渡された水をぐいと飲み干した。
辺りはすっかり暮れなずみ、
点灯したばかりの街灯が、
ビオンホールへと続く短い階段を
照らし始めている。
その階段を、
紗英さんの肩に寄り掛かりながら
下りていく僕の姿が
おぼろげに見えてくる。
その虚像を追う僕の脳は漸く、
ついさっき起こった出来事を、
控えめに思い出し始めた——
ライブ会場にいる僕は、
前方ステージをつと見詰めている。
そんな僕の視界の中央に、
突然ドットのような暗点が現れた。
眩しいライトを見た後に、視線を移すと
その残像が残ったままだったりするが、
その視界を邪魔する
煩わしい残像のようなもの。
それに似た暗点が、
ピール達の姿にちょうど被ってしまい、
いくら目を凝らしても、
視線を動かしても、
その暗点は消えてはくれなかった。
次第にその残像のようなものは、
視界の中で拡がっていった。
拡大していくとともに、
それは三日月のような形を
していることがわかった。
ただの暗点というよりは、
シャボン玉の表面に浮かぶ
虹色のような模様にも見える。
ギラギラと不快に蠢く三日月型の暗点が、
僕の視界を奪ってゆく。
目を見開いてみたり、
ぎゅっと閉じてみたりするのだけれど、
一向に治らなかった。
痺れた視界のまま、
呆然と前方を見続けていたが、
何も見えてはいなかった。
拡大し尽くして
でかくなりすぎた三日月状のギラギラは、
仕舞には視界の外へと
フェイドアウトしていった。
漸く霧が開けたように、
会場の様子が僕の目を通して
脳内で鮮明に映し出されるようになり、
隣には相変わらず
空漠とした面持でいる
紗英さんの横顔が見えた。
そんな風に、異常を脱した自分の目の
視野確認をしていたところ、
突然、途轍もない頭痛に襲われた。
頭の後ろ半球が猛烈に痛い。
頭蓋骨から後頭部の脳みそだけを
誰かが
引き剥がそうとでもしているような、
居た堪れない痛さだった。
立っていることすら限界に達した僕は、
その場にしゃがみ込んでしまった——
その後どうやって
ライブ会場から退出したのかは
思い出せないが、推測はできた。
今飲み干した水は、
紗英さんが
噴水広場の脇にあるコンビニで
調達してくれたのだろう。
ペットボトルのバーコードには、
コンビニの店名入りの白いテープが、
律義に貼られている。
「だいじょうぶ?」
堀戸はもう大丈夫そうだと
見通したような
柔らかい笑みを浮かべながら、
紗英さんが問いかけてくる。
「うん。だいじょうぶ」と、
何気なく返事をしたところで、
急にひとつの疑念が沸き起こって来た。
——もしかしたら、
ライブ途中で退場したという推測は
違っているのではないか。
あの後すぐに立ち上がって、
頭痛を抱えながらも、
ライブを最後まで見終わった、
という可能性もある。
例の、時間の経過を
前後させてしまうという僕の観察異常が、
たった今僕自身の身に
起きているということも
有り得ると思った——
その事実を確認しようと、
紗英さんのほうを振り向いたが、
彼女の顔は広場の南脇にある
古びた時計のほうを振り返って見ていた。
「まだヨッシーが迎えに来るまで
時間あるけど、どうする?」
彼女はそう言いながらこちらに向き直り、
僕の様子を伺った。
僕は、広場の時計が狂っていないことを
自分のスマウォで確認した。
吉岡さんとの待ち合わせまで、
まだ小一時間もあった。
そのことを知り得たと同時に、
最初の僕の推測が合っていたという確信も
得たような気がして、一頻り安堵した。
「ごめんね、せっかくのライブだったのに」
僕は、
謝罪には到底似つかわしいとは言えない
清々しい声色でそう言った。
突然の朗らかな僕の謝罪に、
紗英さんは一瞬
きょとんとした表情になった。
だが、すぐにいつもの、
何がそんなに可笑しいのかと
問いたくなるような、
吐息交じりの温かい笑い声を立て始めた。
そして、彼女は笑ったままこう言った。
「今からふたりで乾杯しちゃいますか」
僕らは噴水広場を後にし、
駅前まで戻れば
あるであろうコーヒーショップを目指して
歩き出した。
ライブを途中で抜け出したお祝いに、
コーヒーで乾杯するために。
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