第13回 (『ノラら』紗英から見た世界 ) ~流れに抗(あらが)うという体験~
『ノラら』
第一章:紗英から見た世界
第十三回
私たちは病院で紹介された小さな会館で、
僧侶の読経も遺影も無い
簡素な通夜と葬式を施行した。
葬式代は父方の親戚が
皆で出し合ってくれた。
末っ子の父は、
やんちゃだが憎めない性格もあって、
昔から親戚中に可愛がられていた。
葬儀に駆けつけてくれた親戚達に
労(いたわ)りの涙を貰いながら、
父は焼き場で無事骨となった。
火葬炉から出て来た父の歳不相応な
すかすかの骨を見てみんな驚き、
そしてまた涙していた。
私だけが父の死にフォーカス出来ずに
遠巻きで皆の様子を
刻々と頭の中に録画していた。
楓が皆の泣き声に釣られるようにして
泣き出すやいなや、
私だけがこの場所から
ぽんと弾き飛ばされて
しまったかのような気がした。
仕舞には幽霊になって
焼き場の天井を気の抜けたように
ふわふわと彷徨い、
頭上から式の最後を眺めるのだった。
体調が悪化する一方の母は、
通夜も葬式も
家で横になって過ごしてもらった。
母はひとりで泣いたのだろうか。
家に帰ると、
母は私たちが出て行った時と変わらず
ベッドの上で仰向けになって寝ていた。
和室に入り
母に無事終わったことを告げると、
「そう。疲れたでしょ」
と、ちらとこちらへ眼だけ向けると、
また天井を見詰め直して
「いろいろほんとにごめんね」
と一言呟き残した。
それから何日かして、
夕飯前に母は自室の畳の上で
吐血したのだった。
台所でご飯の準備をしていた私は、
楓に呼ばれて慌てて見に行くと、
大量の血が混ざった自分の嘔吐物の前で
母が泣き出しそうな顔をしている。
「お母さんお昼何食べたの?」
「楓がカレー食べたいって言うから
一緒にカレー食べたの。
あんまり食べられはしなかったけど」
本当は「大丈夫」と
優しい言葉でも掛けて
安心させてあげなければいけないのに、
私は苛立った口調で
母を問い質(ただ)していた。
「そんな刺激のあるもの
食べるからでしょ!なんでなの?
あたしがいない時に
いつもそうやって勝手にさ…」
急に言葉に詰まり、
畳を侵食していく
不気味な色をした吐物に目を落とした。
母の正常な細胞を
容赦なく食い潰していく
癌の増殖スピードを想像して、
混乱した私は
耄碌(もうろく)の老女のように
力の抜けた顔をして
その場に立ち尽くし
動けなくなってしまった。
楓が洗面所から
何枚も雑巾を持って来て、
何も言わずに黙々と
畳の血を拭い始めた。
血溜りに投げ込まれた真新しい雑巾は、
ぐんぐんと赤黒くくすんだ色に
染まっていった。
母はその日の晩、再入院した。
これで何度目の再入院だったのだろうか。
六人部屋の廊下側の一画が
母のベッドスペースとして充てがわれた。
ナイロン製のボストンバッグから
母の衣類を出し終えて、
最後に何気なくバッグの
サイドポケットに手を突っ込むと、
「矢崎美千江」と母の字で書かれた
テレビカードが出て来た。
母は入院中に時々
このプリペイドカードを
テレビに差し込んで
イヤホンをつけて観賞していた。
ベッドについた母にそれを手渡すと、
「ありがとう」と言って
ベッドサイドの収納棚に手を伸ばして
そっとそれを置いた。
「もう一枚、買ってこようか?」
と聞くと、母は
「もったいないからいいよ。
これでも十分見れるし、
こんなとこで観ても
面白いものでもないから」
と、テレビカードに描かれた
クマの絵を見ながらそう言った。
それから母は宙に視線を移したあと、
独りごとのように、
寄る辺もない自問を口にしたのだった。
「なんのために生まれてきたんだろ——」
その言葉には、
母の人生すべてを無意味なものだったと
否定してしまえる力が有り、
さらには、
私達家族の歩んできた道のりまでもが
虚しく無価値なものだったのだと
定義してしまうような
威力さえ備えていた。
楓が家で留守番をしていて
この場に居なかったことや、
それに加え、母と私は昔から
鬱屈した感情を
そのお互いの精神の性質上、
共有しがちだったことも手伝い、
彼女は私の前でそんな言葉を
平然と呟けたのかもしれない。
動揺する自分を押し殺して私は咄嗟に、
「楓や私が生まれてきたじゃん…
それじゃだめなの?…」
と心もとなげに囁いてみたのだが、
母は私をちらっと見ただけで、
またすぐにその視線を宙の奥へと
追いやってしまった。
私はその日から
癌が治ると謳っている
詐欺紛いの商品やサービスに
手を出すようになっていった。
この頃の私は、
兎に角母の命を救えるのならと
藁にもすがる思いだった。
母から預かっていた
わずかな家の財産のほとんどは、
そういったものに
費やされていった。
癌のある付近に貼付すれば
治癒するという
溝(どぶ)のような臭いを放つ湿布や、
キノコの一種であるという健康補助食品が
癌を治すという広告を読んでは
急いで購入し、
それを煮出して飲ませたりもした。
普通の食事すら摂ることが
難しくなっていた母は、
私ですら飲むことが困難な
腐った水槽のような臭いのするそれを、
少しでも飲もうと努力した。
私が当時働いていた
派遣先で親しくしていた
大沢さんという方の知り合いに、
病を治せる宗教家が居ると聞いて、
彼に案内され訪ねてみたこともあった。
車で二時間半ほどかけて
たどり着いたその宗教家の家からは、
年老いた男性が出てきて、
私一人仏壇の前に座らされると、
「目を開けるな」と言われて、
何やらお経のようなものを唱えながら
私の背中に抱き付いてきて、
全身を擦り付けながら
両手で体中を触られたりもした。
外で待たされていた大沢さんは、
中で何があったのかも知らずに、
私の代わりにその老人に
お布施まで渡してくれたのだった。
その次の日、
私は仕事が終わってから
母のもとへ見舞いに行った。
母は「今日はすこし体がましなの」と
私に言った。
それは母のやさしさから出た
言葉だったのだと思う。
紹介してもらった宗教家のところで
お祈りをしてもらうということを
ちょっと前に伝えていたものだから、
母はそれのお陰とでも言うように
優しい顔をして私を見詰めるのだった。
この少し前から、
母の癌による痛みが
激痛を越えてきたらしく、
「子供を産む痛さなんか
比べものにならないくらい痛い」
と、彼女は初めて
弱音を吐いたのだった。
母の点滴には
痛み止めのモルヒネが
中途から繋がっており、
そのモルヒネから出ている
管の先についているボタンを押すと
点滴にモルヒネが注入され、
痛みが緩和される仕組みになっていた。
きっと母は
ボタンを漸く押すようになり、
そのお陰で痛みが
楽になってきたのだと思う。
「よかった。すこしずつ
良くなってるのかもしれないね」
私は母の病状に対して、
自分が感じ取っていることとは
裏腹のことを
母に見習って優しく呟いた。
「また来るから、おやすみ」
「気をつけてね。いつもごめんね」
母の居る大部屋を後にして、
エレベーターの前まで歩いて行った。
そこへ背後から
「矢崎さんちょっといいですか」
と声を掛けられ振り向くと、
眼鏡を掛けた看護師が
腹を突き出すような
妙に姿勢の良い体勢で立っていた。
「矢崎さん、そろそろ個室に
移動してもらえませんか?
あの状態で大部屋におられると、
周りにも迷惑かかるんですよね。
頻繁に吐血もされますし、
自力でお手洗いが無理やから
おむつもしてますけど、
下からもずっと血が出てるでしょ。
延命措置も
希望されてないんでしたら……
わかりますよね?早急に考えといて
もらってもいいですか?」
私は何も言えないまま、
唐突に現れたその看護師に
少しだけ頭を下げて、
扉の開いたエレベーターに乗った。
見送る看護師の眼鏡に
エレベーター前のスポットライトが
黄色く反射して、
彼女が今どんな表情をしているのか
読み取ることはできなかった。
母の癌は行き着くところまで進行し、
あとはもう
死を待つばかりだというのか。
薄々分かってはいたことを、
はっきりと突き付けられて動揺し、
それに加えて私が
その看護師の放った不躾な言葉に
何も言い返せなかったことに、
深い憤りを感じた。
個室に移った場合、
どれくらいお金がいるのだろう、
それに個室に移ってからも
この状況が何日続くかわからない。
まず始めに
何から考えればいいのかが
分からなくっていき、
頼りない自分自身を情けなく思った。
エレベーターを降りて
駐輪場へ向かい、
自転車のカゴに
母の下着が入ったバッグを入れた。
ふと今出て来た病院を見上げると、
まだどの窓辺にも
黄色い明りが点(とも)っていた。
母はもう良くはならないのだ——
そうであったとしても、
母を苦しめている癌を
少しでも小さくしたいと
必死にならずにはいられなかった。
ただ、良くはならないと
気付きながら
それに抵抗するかのように、
良くなりますようにと
祈り続けることは、
とてもつらいことだった。
見上げたついでに
空を振り仰いでみたが、
病院の輪郭が
真っ黒に縁どられて見えるだけで、
辺りには月も星も
見当たらなかった。
目の前を走る国道では、
白い光線を放つ
黒々とした大衆車たちが
生温く膨れ上がった夜を
切り裂いては遠ざかっていく。
そろそろ帰ろうと思い、
ポケットからスマホを取り出して
楓にメッセージを送った。
「今から帰るね~、
アイス買って帰ろうと思うんだけど
シャリシャリ系とバニラ系
どっちがいい?」
私が好きな乳脂肪分の多い
クリーミーなものではなく、
清涼飲料水を凍らせたような
さっぱりとしたアイスのほうが
楓の好みであることくらい
知っていたが敢えて聞いた。
するとすぐに返信が来た。
「しゃりしゃり系で♪
オレンジのがあったら
それがいいなwwさんきゅ~!
気を付けてね♪」
二人の些細なやりとりが、
暗闇の中に浮かぶ小さなスマホ画面内に
煌々と映し出されている。
「りょ~かい☆」
と精一杯の明るさで返信し終えた私は、
勢いよく
自転車のサイドスタンドを蹴り上げて
それに跨(またが)った。
数メートル先にある
青信号になったばかりの
横断歩道めがけて、
私は重たいペダルを力強く漕ぎ始めた。
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