屍の上で続く祝祭
この間なんじゃこりゃぁぁぁと心にぶっ刺さる映画が見たいとぼやいていたらアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの「バルドー偽りの記録と、一握りの真実」がぶっ刺さってしまい、昨日から反芻している。
バードマンが大好きなのであるが、私はイニャリトゥが描く苦悩するおじさんが好きらしい。
蛇足だが、この映画を見る前に見知らぬおっさん(おじさんではない)に舌打ちをされガンを飛ばされてしまった。こういう人はたいていロック様やジョンシナにはそういうことはしない。そういう小心者のおっさん(おじさんではない)は大嫌いである。
冒頭、砂漠の中を浮遊するシーンから始まり、女性の出産シーンが続く。産婦人科医は赤子を取り出し「世の中がひどいから出たくないと言っている。だから戻します。」と言い放ち、看護師が何食わぬ顔で女性の子宮に戻す。
もうこの時点で脳がフル稼働して、なんらかの意味づけをしようとする。後にわかるのだが、どうやらこの赤子は概念らしい。
上半期ベストのチタンを思い浮かべ、チタンは壊して生み出していたけど、バルドは生み出せず自然に返したことが個人的に面白かった。
主人公はシルベリオ・ガマというドキュメンタリー兼映像作家で、故郷メキシコを離れLAで暮らしている。彼がジャーナリスト賞を受賞し、移民二世がいる家族やメキシコでの過去をユーモアと悲哀を織り交ぜながら描かれている。
メキシコで再会する、袂を分かった地元で人気の司会者との対話のシーンが個人的にはグッとくるというか、ミクロな視点からいうと地方格差でもこういったことはある。いつまで経っても下衆な話題で盛り上がり続ける人間は出ていった人間に見下され、嘲笑されていると思ってしまう。出ていった人間は、故郷を批判的な視点で描き、金を稼ぐ一方で故郷を知らぬ者から嘲笑には反発する。
重なる先住民族の屍の上で、シルベリオが何か(うろ覚えですみません)と対話する。メキシコの歴史に明るくなく申し訳ないが、日本のみならずどこの国でも略奪があったのは想像に難くない。
クライマックスでシルベリオは荒野を歩く。それに追随する家族。電灯が申し訳程度についている。フェリーニの8 1/2を思い出す。悲哀が多分に含まれた祝祭。魚眼レンズと俯瞰で撮られる構図の対比に感嘆を漏らさずにはいられない。そして音楽の使い方が本当に好き。あそこでデヴィットボウイがかかるなんて嫌いになれるわけない、というシーンがある。
映像もセリフも容赦なく、全然覚えられなかったのでもう一度みたい、そんな作品だった。