勝手にイタリアフェア
そういえば、「3つの鍵」を見て、クライマックスのゲリラ的なダンスはフェリーニのアマルコルド(それしか見たことがない浅い浅い知識)を思い出し、フェリーニがみたいなと思っているところにちょうど8 1/2が公開されていることを知り、観に行く。
性の目覚めのシーンや、ハーレムのシーンが特に好きでグイドを糾弾するフランス出身の女優さんが興味深く、主人公の自傷的な妄想シーンと、人間の上手くいかないことやいかんともしがたいことや愚かさを最後は祝祭で終焉させる清々しさを感じた。祝祭といえば某夏至祭の映画があったが、私には合わず、美を感じられなかったことを白状しておく。
イタリアつながりでウンベルトエーコ・ジャンクロードカリエールの「もうすぐ絶滅するという紙の書物について」を読む。西洋、特にヨーロッパという広大な歴史の中で語られる、書の歴史、書物、あるいは映画というメディアについて2人が織りなす対談は、知の結晶であり、何かを後世に受け継ぐことの重要性や、何の疑いもなく、何の禁止も検閲もなく、さまざまな書籍が自由に読めることの有り難さを感じずにはいられない。また映画や映像表現、インターネットの情報についても存分に語られており、観たい、読みたいリストが溜まっていく。
阿呆と馬鹿についても語られており、耳が痛い思いをする。
名言や格言を多用してしまう人を私は警戒するのだが、これは自分への戒めとして筆で書いて暗誦したい。SNSがこれだけ身近になった今、玉石混交の中で、自分の承認欲求が理性を凌駕してしまう時、深呼吸をしながらこれを唱えたいと思う。
また、「我々が読まなかったすべての本」という章に勇気づけられた。よく会う友人はとても聡明で、いつも本をおすすめしてくれるのだが、古典の名著で、私はそれに対して「こんなのも読んでない自分は恥ずかしいな」と思いつつ、素直に読んでみることが多い。
ウンベルトエーコも「戦争と平和」を読破したのが40歳の頃と聞いて勇気をもらえた。と同時にすぐに「読んでいない本について堂々と語る方法」をカートに入れてしまった。愚かな行動である。
書物、物語、映像。今私たちが楽しんでいるものは、数十年後、数百年後に残っているのだろうか。それは神のみぞ知ることなのだろうか、いや我々は本を焼くのではなく、次の世代への知のバトンを渡さねばならない。
知識の炎を絶やしてはならない。