アタクシの欲望

この記事は文学サークルお茶代12月の課題です。

 「人はみな妄想する」という本が積読になっていた11月ごろ、近くの本屋で「阪神タイガース一番くじ」なるものが開催されていたので、私は「いや本当は本を買いにきただけですよ。あら、こんなところにくじが。ちょっと引いていこうかしらむ」という偽装のための邪な心8割と、「ゼロから始めるジャック・ラカンかーこれなら読みやすそう。千葉雅也さんも推薦しているからとっかかりになるかもしれない」という気持ち2割でレジへ突き進んだ。

 満を持して「ゼロから始めるジャック・ラカン 疾風怒濤精神分析入門増補改訂版」(片岡一竹/ちくま文庫)と、「VAMOS!」と書かれてある缶バッチが私の手元に届く。それらは本棚の中で輝きを放ち、放っているだけで時間が過ぎてしまう。程なくして参加させていただいているサークルの課題となっていたので、これ幸いと読み始めた。締切がないと怠惰になるのは人間の常である。

…という下書きを残して1ヶ月が経とうとして、慌ててもう一度読み直そうと思ったが、その間にビヨンセの映画が始まって、M-1がとっくに終わっていた。

 とてもではないが一度読んだだけでは理解できないし、自分の認識が間違っている箇所もあろうとは思うが、読んで興味深かったところをいくつか上げる。

言語化、病む世界

本書は二部構成になっており、第二部の第3章で私が特に心に残っているのは、下記の一節である。

人間が認識している「現実」というものは、あくまで言語によって構築された現実であって、物質的な世界を世界をそのまま反映しているわけではないのです。

ゼロから始めるジャック・ラカンp120


ここで私は「ニッポンの社長」というコンビの、「合コン」というネタを思い出した。

 合コンにくる女性の名前を挙げていくのだが最初は、「マツナカさん、オガサワラさん、キヨミヤさん、ヤマカワさん、ツツゴウさん」と言い、誘われた相手が「パワー系」という言葉と結びつき、日本野球を知っている人ならそれらの羅列ですぐイメージできてしまう。さらに名前を列挙されるのだが、どの名前も野球界選手であり、もはやただの名前ではなく「特別な意味を持つもの」として認識される。そのズレが可笑しくて、何度も笑ってしまった。

 続いて、下記の一節。

なるほど、絵画や映画などの芸術はイメージ的なものかもしれません。しかしここで注意しなければならないのは、私たちはほとんどの場合、言語的な仕方でしかイメージを受け止めることができないということです。

同上p122

 我々は絵画や映画を鑑賞するとき、人物の表情、背景、置かれたもの、前後のシーンなど、画面の中にあるあらゆるものを繋ぎ合わせて判断する。絵画の場合は隣にある説明、あるいは音声ガイドもその絵画の鑑賞を補強するものになる。それらも言語なのである。

 言語、あらゆる言葉が氾濫していく世界で、なぜ人はこんなにもコミュニケーションをとることが難しいのだろうか。なぜ言葉に反応し、精神が掻き乱されるのだろうか。自分の原体験は何なのだろうか、と省みた。

 

コンプレックスと女の欲望、私の欲望

 第5章からはエディプスコンプレクスの解説を通して、「他者」、「欲望」について探究していく。ここで私はポールトーマスアンダーソン監督の「ゼアウィルビーブラッド」と「ザ・マスター」を思い出した。父と子、あるいは、宗教の「父」と子、子の渇望が見事に描かれているのだが、女性の欲望が描かれた映画はまだまだ少ないのではないか、と感じた。それ故に今年日本で公開されたベネデッタが衝撃的であり、かつ大変興味深かった。
 また、娘と母の関係について今年読んだ「母という呪縛 娘という牢獄」というノンフィクションをどうしても思い出さずにはいられなかった。ラカンの表す「父」「母」はあくまで《他者》という位置づけであるが、実世界における「母」と「娘」の特殊な関係性について書かれた書籍等があればな、と感じた。

 ここまで読み進め、私はまた別の本を思い浮かべる。二村ヒトシの『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』である。この本に書かれていた「心の穴」のメカニズムがラカンでより明瞭になった気がする。

 私の小さい頃の夢は小説家だった。時折、ショートショートのようなものを恥ずかしげもなくnoteに開陳しているのだが、創作というものを通して、欲望や、心の穴と向き合っているのかもしれない。

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