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好意を持ち合っているからって、分かり合えるとは限らない@志賀直哉『沓掛にて——芥川君のこと』②

お久しぶりです♡
※学者ではなく、単なる随筆の感想です。いわゆる「お気持ち」です。

好意は持っているのに、どうにも噛み合わない……、そんな関係はよくあることですが、反面、とんでもなく淋しく、悲しく辛いものです。

芥川龍之介の追悼随筆の志賀直哉の『沓掛にて』はそれがありありと書いてあるなあ、と感じます。

同じ家に芥川君が暮らしたことがある

日本の評論の先駆けである正宗白鳥が、「志賀直哉論」のなかで「志賀は芥川の作品も人となりも好まなかった」という話を紹介しています。①で見てきた通り、ある面ではそうなのでしょう。埋めようのない微妙な心理のずれ、距離感があるなかで、志賀はそのずれを埋めようと努力はしませんでした。

また、芥川とのずれを埋める必要性も志賀は持っていなかったように思います。文壇と付かず離れずの関係を保ち、東京にいない志賀にとって、芥川は雑な言い方をすれば志賀の人生における「後進の天才小説家」にすぎません。
有島武郎や武者小路実篤のように同学の先輩・幼馴染でもなく、谷崎潤一郎のように東京時代に交友を深めたり同時に文化勲章を受章したり近所(京都・奈良)に住んでいたわけでもなく、瀧井孝作や小林秀雄のように「後輩・弟子」ではありませんでした。

芥川は志賀の「何か」になれなかった。タイミングを逸したのかもしれないし、芥川自身がためらったのかもしれません。志賀も芥川との距離感をつかみかねていた。だからこそ「友とはいえない関係だった」のでしょう。

ですが、『沓掛にて』の続きを読んでいくと、芥川と志賀は徐々に心の距離が近づいており、「友達になれそう」だったことが書かれてあります。

志賀が古美術の写真帖を作るとき、中国画(支那画)に詳しい芥川に作品を選んでもらいました。そこでは。

山本氏の所からの帰途(芥川君と)松江の話をした。大正二三年の頃私は松江の内中原という所に小さな家を借り、一ト夏暮らしたことがある。所が前年の夏、同じ家に芥川君が暮らしたことがあるとかで、二人は隣家の若い大工夫婦の噂などをした。それは芥川君が高等学校を卒業した頃の話らしかった。

このやりとりにおいて芥川は志賀に引くことはありません。志賀も芥川の話の内容を覚えています。実にほのぼのとした、今後良い関係になれそうだという光明が見えてくるシーンです。

だからこそ、次のシーンが心にきます。

 芸術というものが本統にわかっていないんです

少し後、芥川は、麻布の志賀の父の家に志賀を誘います。志賀の父は名士だったので、芥川と知り合いだったのか。それとも、志賀は「此辺記憶が少し怪しく」と書いていることから、父の家であったことだと記憶の上塗りをしているのか。私は不勉強なので知りません。

志賀文学といえば「父との不和」がテーマに据えられます。実際志賀自身が随筆や小説などから察するにいわゆる言い方は悪いですが「毒親育ち」であり、彼の自伝的作品の『和解』の最初の方では父にちょっと会っただけで体調不良になり、二日ほど寝込む様が書かれています(「病気かも知れない」と体調不良になっちゃうところ、いかにスポーツに長けていようと山手線に跳ねられて生き延びようと、根は繊細でインテリな気質なのをひしひしと感じます。文学者の道を選んだのもむべなるかな)。

芥川に招かれた時期は年譜を見れば、子供が生まれて父との関係が改善していたようです。しかし、志賀文学の主要なテーマの一つが「父子の不和」であることを踏まえると、次から語られる、芥川の作品に対する論評をする場所が、不穏さを感じさせます。

志賀の父の家という舞台設定だからです。

その時、芥川君は私の作物に対し好意を示してくれた。私の何に就てどういう意味の事を云って呉れたか、今は不思議な程忘れて了った。誰もそうだろうが、自分の作品を眼の前で讃められるのは工合の悪いものだ。返事のしようがなく、早く済んで呉れればいいという気になる。芥川君のがそういう感じを私に与えたかどうか。多分露骨にそういう感じは与えなかったかも知れないが、兎に角、どういう話だったか今は全く頭にない。そして私も芥川君のものを評したが、それはよく覚えている。

まずは、照れる志賀先生。『文芸的な、余りに文芸的な』の調子で語られたら確かに記憶をなくすほど恥ずかしいかもしれません。
ここまで記憶をなくすほど照れるあたり、どうやら芥川に金色のおまんじゅうはあげていないようです。

志賀は芥川と距離が近づいた、と判断したのでしょう。だから芥川の文学について思うところを遠慮せずに言ってしまったのではないでしょうか。

芥川の『奉教人の死』について、志賀は本人に直言します。

筋としては面白く、筋としてはいいと思うが、作中の他の人物同様、読者まで一緒に知らさずに置いて、仕舞いで背負投げを食わすやり方は、読者の鑑賞がその方へ引張られる為め、其所まで持って行く筋道の骨折りが無駄になり、損だと思うと私は云った。読者を作者と同じ場所で見物させて置く方が私は好きだ。芥川君のような一行一行苦心して行く人の物なら、読者はその道筋のうまさを味わって行く方がよく、そうしなければ勿体ない話だというような意味を云った。あれでは読者の頭には筋だけが残り、折角の筋道のうまさは忘れられる、それは惜しい事だと云う意味だった。

確かに、最後に衝撃的な事実が提示されてしまうと、読者は「主人公は女だったんだ!」ということばかりに気がとられがちで、芥川がせっかく苦心して書いたはずのさまざまな伏線が読者の心に残らず無駄になる、と言いたいのでしょう。
それではもったいない、と志賀は思ったようです。
ほう、志賀先生はそういう見方をなさるのか。それも一理ある。
確かに、『奉教人の死』の途中では、傘屋の娘や傘屋の翁の心理などなどがちゃんと書かれているにも関わらず、最後の最後でそれを綺麗さっぱり忘れて「女だったんだ……」ということだけが頭に残ってしまいます。
それに「女だったんだ」ということがわかっていてもう一回『奉教人の死』を読むと「いや、こいつ女だからな。おっぱいついてることに気づかない傘屋の娘バカだな〜」と読者は『奉教人の死』に対して雑な感想を抱いてしまいます。

私は無遠慮に只、自分の好みを云っていたかもしれないが、芥川君はそれらを素直に受け入れてくれた。

志賀は主観(好悪)でものを判断する、といわれていることを踏まえると、この一文は興味深いです。
「無遠慮に只、自分の好みを」というくだりからもわかるように、このときの志賀は、主観と客観を切り離して考えている、つまり自分の考えは独自のもので万人に共通する法則ではないとわかっています。
言い換えれば、志賀は自分の文学上の好みを芥川に伝え、芥川はその指摘を素直に受け入れてくれたのでとても嬉しい、と思いかけたところなのです。
オタク用語でいえば「解釈の一致を見た」というところでしょう。それは嬉しい。

ところが、素直に受け入れた芥川はこう返します。

「芸術というものが本統に分っていないんです。」

ヘビーな展開です。

例えば「こういう気持ちで書いた」と訂正してくるのだったら志賀も芥川への理解の深めようがあったと思うのですが、
志賀「芥川君の文学姿勢に照らし合わせてみても、そういうとこが勿体無いと思うし〜、僕個人はそういう話運びは好きじゃないなぁ〜」
芥川「芸術というものが本統に分っていないんです。」
と返されたら言葉に詰まります。そこは「うるせぇ!志賀!俺はこういう気持ちで書いてるんだヨォォォ!!!!何が勿体無いだよおおお!!!」と熱いパッションを見せるべきところです。

要らざる事を云ったようにも思ったが

そのほか、芥川の書いた『老婆』という話の描写のことも志賀は指摘します。このシーンの志賀の考え方は、文章を書く人には示唆的で面白いので引用しておきます。

「妖婆」という小説で、二人の青年が、隠された少女を探しに行く所で、二人は夏羽織の肩を並べて出掛けたというのは大変いいが、荒物屋の店にその少女が居るのを見つけ、二人が急にその方へ歩度を早めた描写に夏羽織の裾がまくれる事が書いてあった。私はこれだけを切り離せば運動の変化が現れ、うまい描写と思うが、二人の青年が少女へ注意を向けたと同時に読者の頭も其方へ向くから、その時羽織の裾へ注意を呼びもどされると、頭がゴタゴタして愉快でなく、作者の技巧が見えすくようで面白くないというような事もいった。こんな欠点は私自身にもあるかも知れず、要らざる事を云ったようにも思ったが、当時はそんな事を思っていたので、これも私は云った。

なるほど。名文の書き手とされる志賀の「物の見方」を感じます。
ところが。

芥川君は「妖婆」は自分でも嫌いなもので書きかけで、後を止めたものだと云った。

ヘビー。
別に志賀は芥川に「妖婆」はクソだから今すぐゴミ箱に捨てろといっているわけではありません。そもそもこういうアドバイスをされたら芥川の立場として今後の参考のためにメモったりするのではないでしょうか。

『奉教人の死』も『老婆』も志賀は駄作だとは一言も言っていません。
むしろ「ここを直せばもっといいのに」という気分でアドバイスしたように読めます。

端正で名高いはずの志賀の文章が、『奉教人の死』へのアドバイスの際に、「筋としては面白く、筋としてはいいと思うが」とまるで芥川の作品をフォローするかのように崩れていることからも察することができます。

まるで芥川は志賀に少しでも否定されるのを極度に恐れているかのようです。

彼の最も愛し、最も恐れていた作家

話は変わりますが、芥川の弟子の堀辰雄は、「芥川龍之介論」のなかで、

日本の現代の作家の中で、彼の最も愛し、最も恐れていた作家は、志賀直哉氏だった。

と断定しています。堀は「沓掛にて」を読んでいたのか、それとも生前の芥川から耳にタコができるほど聞いたのかわかりませんが、この一連の流れを克明に論じています。

芥川氏があらゆる物語的なものから彼自身を解放し、最も詩に近い小説——彼の謂(い)うところの「筋のない小説」に強い情熱を持ち出した変化の道程を見究めれば、そこにはこういう志賀氏との対話が或影響を与えている事は見逃がせないだろう。晩年の彼の、仏蘭西(フランス)の近代の画家セザンヌと、その「セザンヌが画を破壊したように小説を破壊した」小説家ジユウル・ルナアルに対する愛が、志賀直哉氏に対する愛と一緒になって、彼の中の物語作家を絞殺し、新に彼の中に「善く見る目」と「感じ易い心」とだけを持つところの詩人を目覚めさせたのである事は、「文芸的な余りに文芸的な」の冒頭において了解される。

うーーーーーーーーーーーーん。なるほどわからん!
その美しい世界のファンではありますが、堀辰雄は小難しい言い回しをしすぎ!!
ライバルとか言われている太宰治のようにもう少し直接的な物言いをだな(※太宰ファンと堀ファンの仲が悪いと知っていて暴言を吐く私)

ただ、ここから見えるのは、芥川龍之介は志賀直哉本人と親しくしたかったのではなく、「志賀直哉の作品」を愛していた、志賀直哉のような作品を描きたかったということでは。
逆に、「沓掛にて」から見えるのは、芥川龍之介の作品をあまり熱心には読んでいない反面(※たぶん『奉教人の死』『老婆』はたまたま読む機会があったのでしょう)、芥川龍之介その人の好もしい人となりをあれこれ述べていることから、志賀直哉は、「芥川龍之介の作品」はさておき、芥川自身とは同業者として尊重しあえる関係を持ちたかったのではないでしょうか。

この齟齬。

文学友人であれば、「ともに文学や作品を高めていこう」という同志意識が生まれるため、上記のような志賀の批判をうけて、芥川は元気になるはずです。
でも、その作品を「理想」と考えている人からのアドバイスなら。
志賀から上記のような批判をされて、心が平穏でいられるはずはなく、芥川がヘビーな反応を返すのは至極当然といえるでしょう。

つまり。

初対面のときから、志賀と芥川は一切、何も進んでいなかったのです。

芥川の気持ちももちろんしんどいものがありますが、志賀の気持ちを考えるとひどく辛く寂しかったんじゃないかな、と『沓掛にて』を読んでいて思いました。

友達になれそうだったのに、何も進んでいなかった、それを知ったときの寂しさ。つらさ。寂寞感。
この随筆では志賀と芥川の間に起きた出来事を淡々と書いているので、「つらかった」などという感傷的な言葉は一切使っていませんが、『沓掛にて』からは寂寞感がにじみ出ています。いや、出来事のみを書いているゆえに悲しみが冴え渡るのです。

これ以降、芥川と志賀は現世で対面することはありませんでした。

死を決心して二年間というその間は遂に一度も会う機会がなかった。

堀辰雄は上記の「芥川龍之介論」のなかで、こう述べています。

志賀氏を真に理解し始めてから、そこに彼の芸術家としての悩みがはげしく起った。

そして、芥川は死の直前に、こう記すのです。

志賀直哉氏は僕等のうちでも最も純粋な作家——でなければ最も純粋な作家たちの一人である。(略)
志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きている作家の作品である。立派に? ——この人生を立派に生きることは第一には神のように生きることであろう。志賀直哉氏も亦(また)地上にいる神のようには生きていないかも知れない。が、少くとも清潔に、(これは第二の美徳である)生きていることは確かである。

まさに壮大なディスコミュニケーション。そんなものを感じました。

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