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本当の○○という沼(後半)


こんにちは、村崎アオイです!

前半の方では「本当にやりたいこと」があるかっていう話をしました。今読み返してみると、なんかそんなにぎちぎちにならなくても良いのに・・・!って思っちゃいますね、自分で書いた記事なのに笑 自分の選択に後悔してはならない、みたいな私のこだわりが出ちゃってるなって笑

前回の記事を書いてから数時間しか経ってないのにこんなに読み方が変わるなんて、「本当の私」はどこ?!ってなっちゃいますね!!

ということで今回は「本当の私」が存在するかどうかについて書きます。(導入もしかして強引・・・?🤭)

1人の時の私、家族の前での私、先生の前での私、友達の前での私、複数の友達の前での私など、日常で一体何人の私を使い分けているのでしょう。根本の性格みたいな部分は変わってないけど、キャラはちょっとずつ違う。しかもAちゃんと二人の時の私と、AちゃんとBちゃんと三人でいる時の私も違う。昨日一人で考えてた私と、今日一人で考えてた私もちょっと違う。

私は最初、1人でいる時の私が本当の姿だと思った。特にnoteを書いている時や読んでいる時や考え事をしている時。

でも、友達の前で笑ったり、相談したり、聞いたりしている私も、別に営業スマイルでやってるわけではない。ア○○カみたいに「話きこか~^^」ってやってるわけでもない笑 
そこにいる私も、まぎれもなく素である。思わず笑ってしまうし、悩みには寄り添いたくなる。

結論を言うと、その場にいて心地良いと思える自分を、その時々で合わせて出しているだけなのだ。別にどれが嘘とか、どれが素とか、そういう問題ではない。全部が「本当の私」。その時に表現したいと思った私という人間の一面。そして、この人の前だと私が表現しやすいな♪という相手を、「波長の合う人」って呼ぶのではないでしょうか。

あとよく、この人の前では本当の私でいたいと思うことってあると思うのですが、そう思うと緊張してしまいますよね。で、緊張して自分が出せなかった・・・(´;ω;`)ってなると思うのですが、別にそれも立派な「私」なんじゃないかと思います。そうやって自分にプレッシャーをかけて緊張してしまっているところがその人らしいから笑 確かにその思考のプロセスを相手に開示できないからもどかしいっていうことだとは思うのですが、「本当の私」という幻想をそんなに追いかけなくてもって思ってしまいました。

前半、後半書いてみて、本当の○○を追いかけると、良いことは少なくとも起きないのではないかという結論になりました。本当の○○を追いかけるよりも、思わず出てしまった自分の言動を分析して傾向をつかむ、くらいがちょうど良いんですかね🤔

ではでは^^

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