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2020.1.22 『可愛い』を捨てる

はじめに言っておきます。
多分、おそらく、今日の内容は、
お前何言っちゃってんのって話になると思う。
わたしが一番はじめにつっこみたくなると思う。
(もう既につっこみたい)
つまりわたしとあなた、
共に忍耐力勝負になります。…多分。
とはいえ、そう感じて思ったんだもの。
嘘はつかないし、つけないもので。

-・-・-・-・-・-・-・-

たまに考えることがある。
と、いうか
たまに考えておかないと
自分の立ち位置や向かう先が
よくわからなくなるから
だから、考えるのだと思う。

「自分の在り方」について。

わたしは今、完全に見失っているし
完全に迷走をきめこんでいるし
あまりに混沌としているから
逃げ出してさえいる。
目をそらしてさえいる。

それでも行き止まりばかりには
いい加減飽きてしまったから、
少しだけ視点を合わせることにした。


女という性別であり
且つ小柄な方であるとか
黒髪ロングであるとか、
そういった外見的要素の人間は
「美しい」よりも「可愛い」の方が
圧倒的に生きやすそうだ。
わたしはおそらく、
そう思っている。
そう思って自分を見ている、
ところがある。

だから、可愛くなりたい。

そんな打算的な願望を
道標としていた、ところがある。

とは言え、
わたしが思う「可愛い」と
他人が思う「可愛い」ってちがう。
人が何をもって「可愛い」と思うか
なんて、1+1=2みたいな法則があるわけじゃない。

強いて言うなら、

○○っていう女優さんは「可愛い」って支持されている、とか
△△な性格の男性は××みたいな女性の仕草に弱いよね〜「可愛い」って感じるみたいだね、とか

人はそれぞれ
個性も好みもちがうけれども、
その中でもこういうのは
「可愛い」ってよく言われているよね。
みたいな
時とともに変化する一般論のようなものは
存在するように思う。
それが自分の物差しと合致するかどうかは置いておいて。

日常を生き抜く中で、
人と関わりを持つ中で、
その時とともに変化する一般論のようなものは
知っているとやっぱり生きやすくなる。
それが自己プロデュース力とか
セルフマネジメントとか
そういう類のものなのかなぁとも思うし、
それは仕事がどうこう関係なく
誰もがやっていることだと思う。
要は自分の周りに
どんな印象を与えるか、ということだから。
それが罵詈雑言より
「可愛い」の方が、
圧倒的に生きやすいだろうと。
まぁ罵詈雑言に比べたら、そらそうだ。

で、ある種打算的な道標が
いつのまにか出来上がっていた。

もちろんそこには
もっとわたしの醜い思惑もあって、
「可愛い」っていう印象を与えれば
手を貸してもらえたり、
ちやほやされたり、
一言でいうなら承認欲求が満たされたり、
そんな特典があるんだろうなぁ。
なんていうイメージが
「可愛い」にはあった。
「可愛い」と言われる人は
そういう印象を与えられるほどの
努力や気遣いなどがあるからこそで、
その醜い思惑は
ちゃんちゃら見当違いなのですが。
今ならそう思えるけれども、
打算的道標が出来上がった頃は
考えも想像もそこまで及ばなかった。

その辺は長くなるから割愛するけれども、
そんな経緯のもと目指した
「可愛いわたしになる」は、
いつのまにか道標ではなく
標準装備になっていたみたいだ。
自然と、流れるように
どうしたら「可愛い」印象を与えられるのか
という考えになっている、みたいな。

わたしが憧れる「可愛い」と
わたしがわたしの
この見た目と中身で目指すならばの「可愛い」。
両者は別物である。
そこは自分と自分の好み物差しは
合致できなかった。
合致するためには、
わたしは多分
生まれからやり直さないとならない。

そこで分けて考えることに
なんの窮屈さも感じなければ、
ずっと「可愛いわたしになる」は
続けられたと思う。

でも、わたしは無理だった。
はじめからわたしに「可愛い」は窮屈だった。
わたしはわたしの思う「可愛い」に
付き合いきれなくなったのだ。

自分以外の誰かが、
わたしを「可愛い」と言ってくださることは
とても嬉しい。
素直にありがたく
その言葉を受け取ります。

でも自分で自分を
自分が決めた「可愛い」の型に
収めようとするこの道標は、
とても窮屈で嫌いだ。

わたしは
「可愛いわたしになる」ためにはどうするか
よりも、
「美しいわたしである」ためにはどうするか
の方が落ち着くし、性分に合うのだ。

22歳くらいまでは、
「可愛いさ」より
「美しさ」を道標にしていた。
でも、寂しくなったのだ。
「可愛い」の身近さに、
羨ましくなったのだ。
人は美しいものは一歩距離をとる。
可愛いものはすぐそばに置く。
だったら「可愛い」を目指した方が
人から理解されやすくなるし
何より寂しくない。
そんなふうに感じる瞬間があったのだ、きっと。
ちょうど、
セルフマネジメントという言葉に出会った頃だ。
そこから「可愛い」に方向転換し、
これまでやってきたようだ。
…長いな、気付くまでに。

自分以外の人から言われるのは
「可愛い」でも「美しい」でも
はっきり言ってどっちでもいい。
罵詈雑言や悪口陰口の類以外なら、
どう形容されてもいいと思う。
それはその人の感性で表した言葉だから。
その感性からいただく気持ちの方が大事だから。
だから、そこはこだわっていない。

なんというか
イメージの話でしかないし、
説明が難しいと感じてしまうのだけれども。
自分に淡いピンク色を
当てはめて押し付けることは、
もう辞めようと思う。
もともと
澄み切った緑色や青色に身を置く方が
「らしいな」と感じるから。

澄み切った緑色や青色と思われるのが
とてつもなく似合わなくて
そんな自分が恥ずかしいと思うこともあった。
だから淡いピンク色にしておけば、
自分も周りも納得すると思った。
挑戦してみたけれど、分かったことは
淡いピンク色じゃなかったってこと。


だから
「可愛い」を辞めます。
「可愛い」も好きだったけれど、
それでも辞めます。

「美しいわたしである」ために
どう自分が在るべきか。
そう思い始めたら、
背筋がしゃんとして
軸が一本通った感じがする。

わたしは「美しい」も
大好きだったんだ。

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遠藤 葵
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