アルゴリズム支配と『選ばされる』わたし(徒然変態日記)
あー、この「アルゴリズム支配」ってやつ。私たちの生活、もうほぼ全自動。目に見えないけど、確実に存在してるアルゴリズムが、わたしの好みや購買行動、ニュースの選別まで、全部「管理」してくれてるらしい。
いや、ありがたいんだけどさ、ちょっと過保護すぎない?母親が子供の弁当を毎朝完璧に作り続けて、その結果、子供が「これしか食べられない体」になってしまったみたいな感覚。もう、人生の選択肢が「選ばされてる自由」だけなんて、なんか酸っぱいよね。いや、酸っぱいって表現、ちょっと違うか。甘すぎる?いや、むしろ無味無臭かも。ほら、何もかもが予測され、計算され、最適化されると、逆に「飽和状態」になるでしょ?これ、まさに「情報の砂漠」。砂漠って、広がってるけど、結局どこ見ても同じ風景、同じ味気なさ。よく言うよね、砂漠って「何もない」けど、実際は「いっぱいある」んだって。
でも、ほら、アルゴリズムによってつくられた砂漠は、違う。そこには「可能性」がない。無限に広がっているのに、何も「違うもの」がない。ほら、わたしが「好きです」って言った瞬間から、それ以外の選択肢が消滅していくわけで、「多様性」なんて言葉、どこ吹く風。いや、風も吹かないか、アルゴリズム空間では。すべてが「無風地帯」。わたしが「これがいい!」って叫ぶたびに、次から次へと似たようなものばかりが差し出されて、選択肢が実質ゼロになるこの感覚、まさに「窒息」。呼吸器官をアルゴリズムに握られた感覚。ね、これってちょっとヤバいでしょ?
いや、わたし、別に悲観してるわけじゃないんだ。むしろ、ちょっと笑っちゃうくらいに「これでいいのか?」って自分にツッコミ入れてる。でも、深夜2時にベッドの中でスマホをスクロールしてるとき、ふと「自分の意思ってどこにあるんだろ?」って考えることがある。うん、考えるだけで、結局またスクロールするんだけど、これがまた皮肉。
アルゴリズムによって「思考の枠組み」まで決められてるんじゃないかって、ちょっと怖くならない?いや、怖くなるべきかどうかすら、アルゴリズムが決めてるのかもしれないけど。ここまでくると、もう哲学的には「自由意志」ってなんだっけ?って話になるよね。デカルトの「我思う、ゆえに我あり」なんて、今の時代に言ったら「我思わされる、ゆえに我なし」になりかねない。わたし、存在してるの?それとも、アルゴリズムが作った幻影なの?
でも、ね、こんなこと考えてる時点で、わたし、まだ「考える自由」は残ってるのかもしれない。いや、残ってると思いたい。だって、もし本当に全部がアルゴリズムに支配されてるなら、こんな無駄な文章書いてるヒマなんてないでしょ?
いや、これもアルゴリズムが「お前にはこの役割がある」って決めたのかもしれないけど。あー、もう、考えれば考えるほど、どこまでが「わたし」なのか、わからなくなってくる。でも、これがまた楽しいんだよね。自分で自分を追い詰めて、最後には「ま、いっか」って投げ出すこの感じ、まさに「知的お漏らし」。もうちょっと恥ずかしいくらいが、ちょうどいいんだよね。