旅行は行く前の方が楽しい??
わたしだけだろうか。もちろん、旅行中も旅行後も楽しい。しかし、行く前の楽しさの質が異なるのだ。
これはなぜだろうと考えてみた。結論としては、「行く前=無限の可能性、それ以外=可能性の収束」となった。モヤモヤ感がすっきりしたとともに、わたしの中で結構重要な気づきを得た。
旅行に出る前は、期待に満ちた夢のような時間だ。真っ白なキャンバスを前にして、描くものをあれこれ考えているときのよう。旅先の街や風景は、まだ視覚化されていない。未知なる出会いや体験も、ただ漠然とした可能性として存在するのみだ。
この不確定な状態こそが、期待を高める源泉なのかもしれない。人間には誰しも、未知への好奇心があり、冒険心があるものだ。そしてその未知を想像する時、わたしは無限の可能性を感じ取る。旅先の一日一日は、いまだ何の決まりもない白紙の状態なのだ。
例えば、静かに朝日を浴び、厳かな朝を過ごすのか。それとも、昼間からお酒を嗜みながら、にぎやかなナイトライフを楽しむのか。見知らぬ誰かと出会い、深い対話に酔いしれるかもしれない。いや、そうではなく、ひとり静かに街を歩き回り、自己探求の時間を持つのかもしれない。
すべては自由で、すべては選択次第。旅に出る前のわたしは、そんな無際限の可能性を心に秘め、期待に酔いしれる。
だからこそ、行く前は何かが起こりそうで、わくわくとした期待感に包まれる。夜寝る時も、朝目覚める時も、いつも旅行の夢を見ているような、そんな高揚した日々を過ごせる。職場に向かう途中の電車の中でさえ、行き先の街の様子を空想しては、熱い期待を抱いている自分に気づく。
そう、旅行は、いつまでも準備の時期に留まっていたいほどに、楽しい時期なのだ。
準備の喜びも大きい。街の情報を調べ、地図を見ては、行きたい場所をメモしたりする。荷物は何を持っていこうかと考えたり、服を揃えたりする行為自体が、すでに旅行の一部のように思えてくる。行く場所への渇望も高まるばかりだ。
しかし、いざ旅行へと旅立ってしまえば、このわくわくとした可能性の時代は終わってしまう。その時点で、行く場所は決まり、経験するものも決まってしまう。つまり、可能性が収束する。
旅行後に旅行の話をすると、過去形で語ることに少しさびしさを感じる。「行って見た」「食べた」「出会った」とね。しかしこの過去形の言葉の向こう側には、もうひとつ別の景色が広がっている。旅行中のいきいきとしたわたし。さらには、旅行前のワクワクとしたわたし。
旅行といえば、行った後のことばかり想像されがちだが、わたしには、その前のほうがずっと楽しく思えてならない。準備する時の高揚した気持ち、期待に包まれる日々、そして何が起こるのかわからない淡く燃え広がる興奮。行く前の方が、はるかに魅力に満ちているように感じられるのは、わたしだけだろうか?
だからこそ、「いまここ」に夢中になりすぎず、ひとつ先の可能性に目を向けることも大切なのかもしれない。そうすれば、いつでも期待に包まれた状態を保てるだろう。人生そのものが、準備の時代に過ぎないと割り切れば、いつまでも夢の時代に留まれるのかもしれないと、わたしには思えてならない。
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