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ショートショート「怒髪ガール、天を衝く。」

 漢字テストが返却されると、決まって同じ問題にペケがついている。これで五回目だ。
 ドハツテンをツク。漢字で書くと、『怒髪天を衝く』。その言葉は中国の故事成語から出来たらしく、怒りのあまり髪が天に昇っているように見えることからきたらしい。
 今年の現代文の先生は、しつこいくらいに漢字テストを行う。逆に言ってしまえば、漢字テストでいい点数が取れれば成績は安泰に入ると言っても過言ではない。だから毎回一ヶ月前から強かに取り組んでいた。たかが五十問。コツコツやれば、十七歳の脳みそには楽々と入ってくるはずなのに。
 また、間違えている。今回も『髪』の部分が上手く書けていない。今度こそはと思ったのに、同じ失敗をした事実に自尊心が削がれる。
 最初は怒りだった。『怒』を『努』と書き間違えた。『髪』も多分間違えていた。その次は『天』を何故か『大』のように書いていた。それは天の親戚みたいな形をしていて、天なのか大なのか、どちらかと言えばきっと大なので、ペケになっていた。多分、睡眠不足が原因だった。いや、時間が無くて駆け足で書いたからだったような気もする。そうじゃないとこんな凡ミスしないと思った。その次も、またその次も何かしらの形が異なりやはりペケ。
 もはや、呪いなのかもしれないと思う事にした。ファンタジーとは、きっと自分を納得させるための存在なのだ。
 そう思いながら漢字テストを四つ折りにし、クリアファイルの1番後ろにしまい込んだ。

 翌日。
 起床時刻、八時三分。
 それはつまり、今から死ぬほど頑張らないと学校に遅刻することを意味していた。
「どうして起こしてくれなかったの!?」
 己のやるせなさは母に向いた。今持ちうる全ての苛立ちをぶつけるように、声が自然とトゲトゲしくなる。
「どうしてって……何度も起こしたわよ!でもアンタ全然起きないんだから」
 母はラリーを打ち返すように、トゲトゲしい声でそう返してきた。
「はあ!?もっとちゃんと起こしてよ!今日日直なのに〜っ!」
 いつもよりリボンを結ぶのは乱雑に、そして時間がかかった。この時初めてヒモ仕様のリボンを憎たらしく感じた。
 イライラした気持ちを隠さずもせずに玄関へと向かう。軽いリップくらいは許される高校だ。朝の会が終わったあとはトイレに駆け込む己をイメージする。
 そんなイメージを遮るように、母の声がとんでくる。
「ちょ、ちょっと!その髪どうしたの!?」
 今になってとんでもない寝癖を見つけたのだろうか。だからといってそこまで驚かなくても良いのでは、と思う。
「仕方ないでしょ、遅刻しそうなんだから!」
 もはや靴を履くのですら煩わしく、力任せに足を突っ込む。
「そうじゃなくて――――」
「いってきまーす!」
 静止する母の声をよそに、私は家を出る。
 地面を蹴っとばし、風を斬り、八時過ぎの町を駆けていく。

「な、なにこれぇ……!!!!」
 女子トイレの鏡に向かってひとり叫ぶ。
 それは、朝の会が終わった後のことだった。
 リップを塗り直そうとトイレに行こうと席を立つ。それだけなのに、やけに視線を感じるとは思った。遅刻ギリギリの登校だとしてもそんなにジロジロ見なくてもいいじゃないか、なんて小さな文句を心の中に浮かべていたが、どうやら視線の先は私の髪の毛にあったようだ。
 髪の毛が、うねっている。
 うねり、続けている。
 まるで生き物のように、うねうねとしている。いつの日か生物の授業で見たことがあるような動きをして、それはしなり、うねっていた。これは絶対に寝癖なんかではないことだけは理解出来た。
 いつから?
 いつからこんな髪の毛になっていたの?
 今朝の母親の様子を思い出し、唇を噛まずにはいられなかった。
 早退の二文字が脳裏に過ぎる。こんな髪で胸張って歩けないし、教室に戻ったらなんていじられるか分からない。最悪いじめられるかもしれない。何がきっかけで教室の均衡が崩れるかなんて、分からない。
「大丈夫?」
 思わずビクリとしてしまった。誰もいないと思っていたからだ。
 聞き覚えのある声の主は、困ったように微笑む。
「そんなビクビクしないでよ〜」
「ごめん、ミナミ……」
 ミナミの笑顔は横に長い。横に伸びるように微笑むミナミの笑顔はなんだか安心した。
「遅刻してくるのかと思ってた」
「しないしない。三年間皆勤賞目指してるから」
「そうだね、一年生のときから言ってたもんねえ」
 ミナミは私の隣に並び、鏡を見ている。つられて私も鏡を見る。
 髪の毛が独りでにうねるのはとまっていたが、捻れているのは直っていない。癖のあるウェーブがかかっているようにしか見えない。
 鏡の中の私は少ししょんぼりした顔をしていた。
「ねえ、髪の毛いつもと違うね」
「……うん……違う……」
「かわいい」
「ええ?そう?」
「アズマちゃん、いつもストレートのサラサラロングじゃん?新鮮でかわいい」
 ミナミの可愛いの発音は、平仮名でかわいい、なんだろうなと思う。
「ね、教室もどろ」
「うん……」
 戻ろう、じゃなくて”もどろ”。
 ミナミの発音は、かわいい。妹なんかいないけど、妹が言葉を紡ぐなら、こういう音になるんじゃないかと思う。
 一時間目、現文だぁ、なんてミナミは言う。その優しくも小さい背中を盾にしながら、私は教室に入った。

 *

 私は、放課後の学校が好き。
 少し寂れていて何かが起きそうなのがいつ見ても飽きない。
 今日の一日は長かった。人目を気にし過ぎて疲れた。というか、うねうねしているのを見られないように必死だった。
 髪がひとりでにうねるトリガーは、どうやら負の感情にあるらしい。
 だからネガティブな気持ちにならないようにできるだけ自分のご機嫌をとった。今日は大変なことにはなっていないが、髪の毛どうしたの?と言われる度にヒヤヒヤした。
 誰もいなくなった教室でスマホをいじる。いつも一緒に下校してるミナミは数学係で、今日は提出物を持っていく仕事があるらしい。
 だから、仕事待ちをしている。
 退屈なスキマ時間の最中、スマホをぼんやり眺めていると、話し声が聞こえてきた。
「ニシさん、数学のノート提出しないの?」
「放っておいてくれない?自分でやるよ」
 ニシ。同じ中学だったけどあまり良い印象がない。口は悪いし、反抗期ド真ん中。そんなイメージがある。
 横の髪が少しうねった。まずい、不安な気持ちが大き過ぎる。冷静になるために少し離れよう。
 そんなことを思った瞬間。
「きゃっ……」
 バサバサバサバサ。
「え……あーごめんごめん」
「あ、いや」
 髪が、うねる。
「そうだよねー、そっちが悪いよね」
 うねる、うねる。
「……う……」
「じゃあねー」
「ちょっと」
「……アズマ?なに?友達待たせてるんだけど」
「今の態度なんなの」
「大袈裟じゃない?大したことないじゃん」
「人として終わってる」
「なに?あたしのことクズって言いたいの?」
「そうだけど」
 頭の中で、刃物のやり取りを見た。
 何も持っていないはずなのに、私とニシは武器を片手に死闘を繰り広げているみたいだった。
「あのさぁー、アズマちゃんには関係ないよね?」
 ニシは、ツリ目気味の目をさらに釣り上げて私を見下ろす。
「ていうか、その髪可愛いと思ってるの?」
 さっと身体が冷える。
 自分の腹に、刃物が鋭利に食い込んでいるような気がした。
「よくそんなので歩けるね。自分のセンス尖ってるとでも思ってるの?それとも、なんか勘違いしちゃった?」
 ニシは、私の方へ一歩踏み出す。
 窓から差し込む西日が逆光になって、ニシの顔が薄暗く見える。
「チリチリで、ボサボサ」
 ニシの言葉が、まるで一粒一粒に見えて、やがてそれは黒くてねばついた淀みになる。人を苦しめるために吐かれている言葉なのがよくわかった。
「皆になんて思われてるか知ってる?」
 皆。
 それは、誰のことなのだろう。
「イタイ、キャラ変アズマちゃん。皆そう思ってるんだよ」
 皆が思っているんじゃない。それは、ニシが思ってることだ。
 目の周りに力が篭もる。
「泣いちゃいそう?」
 ニシは、首を傾けて笑っている。
 強気なボブヘアーは、ニシの動きに沿ってさらりと流れた。
 目の中心から、何か鋭いものが飛び出そうなくらい力を込めながら、ニシの瞳を見つめる。
「泣くわけないじゃん」
 ナイフを握り直す。
 それは、長い剣のようだった。一世一代、魔王に挑む勇者が握る、自分を正義だと信じたい剣。
 自分を守るものではなく、相手を叩きのめすために振り上げる剣。
「強がっちゃって」
「どっちが?」
「は?」
「皆、っていうどこの誰かもわからないやつ味方につけて」
 イライラする。こんなくだらない事でミナミを傷つけているニシが。
「皆って誰なわけ?大勢を味方につけたように思ってるのかもしれないけど、それってあんたが思ってるだけでしょ」
 見え透いてる。ただの悪意が。
 腹が立つ。声がデカいだけの人間が、まるで何しても許されるような光景が。
 許せない。無条件に傷付けられた人の苦しみを想像しようとしないことが。悔やまないおこがましさが。
「ニシって、そんなことも分からないくらい馬鹿だったんだ」
 腹の底で、何かが煮え立つ。次第に沸騰して、頭のてっぺんから飛び抜けた気がした。
 髪が、うねる。
「謝って、ミナミに」
「……」
「謝れよ!!!」
 自分でも聞いたことないくらい大きな声が出た。
 それと同時に、ニシの態度が一変する。
「あ……え……」
 さっきまでいがみ合っていたのに、信じられないものでも見たように固まっている。
 自分の影が目に入る。
 造形が、メデューサのようだった。
「ご、ごめんなさい……」
「私にじゃない。ミナミに」
「ごめん……ミナミ……」
「……私は大丈夫だよ。でも、キタさんのノートが折れちゃったのがショックで……」
「じゃあ、明日謝らないとね。ニシ」
 
 明日からいじめられるかもしれない。教室とは中世ヨーロッパだ。空気読みの合戦が行われ、目に見えないカースト制度が確立されている。そんな世を乱した人間は教室という社会から除け者になる。
 ちょっと怖い。でも、別に良いのかもしれない。
 顔色を伺って怖がって何も言えなくなるより、マシだと思った。
「帰ろ、アズマちゃん」
「うん!」
 この髪の毛に、今は感謝している。
 顔色を伺う私とは今日で少しずつおさらば出来そうだよ、と夕陽に伸びる自分に思った。

 

 

 
 

 
 
 
 

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